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小川 忠 (跡見学園女子大学教授、元国際交流基金ジャカルタ日本文化センター所長)

日本の軍政支配とインドネシア独立

日本の8月は、戦争犠牲者への鎮魂と祈りの月だ。インドネシア国民にとっても、この月は「独立」という自国の成り立ちを振り返る特別な時である。日本とインドネシア、両国民の過去への思念の旅は、日本軍によるインドネシア占領統治とその後のインドネシアの独立という歴史において交差する。

対米英蘭開戦にともない日本軍による南方攻略作戦が始まった。蘭領東インド(現インドネシア)では、1942年1月スラウェシ島マナドに続き、2月スマトラ島パレンバンへ落下傘部隊が降下し南部スマトラの石油資源地域を占領した。さらに今村均中将を司令官とする第16軍は、3月1日にはジャワ島上陸を開始し、5日には首都バタビア(ジャカルタ)を陥落させ、9日にはついにオランダ軍を全面降伏させた。それから45年8月15日まで蘭領東インドは日本軍政の支配下に置かれる。

そして日本降伏2日後の8月17日、スカルノら民族主義者は終戦直後の権力空白状態を利用して、インドネシア独立を世界に宣言し、植民地復活をもくろんで戻ってきたオランダに対する4年に及ぶ武力闘争に突入していった。

今年も8月15日そして17日がやって来るが、日本、インドネシア両国とも世代交代が進み、戦争記憶の風化は加速している。筆者がジャカルタに1回目の赴任をした1980年代なら、日本軍による占領を当事者として体験し、これを記憶する「長老」がインドネシアにも日本にも健在で、彼らから直接話を聞くことができた。しかし今ではそうした長老のほとんどが物故者となり、日本軍政とインドネシア独立は本当に、歴史となってしまった。

時の流れは冷厳だ。なんびとも大河のような時の流れに抗することはできず、記憶の風化は避けられそうもない。記憶の風化を象徴するような「事件」が、筆者が2度目のジャカルタ駐在となった2010年代に起きた。コスプレのつもりか、駐在員らしき若い日本人がジャカルタ市内のゴルフ場で、日本軍風の服装でプレーし、周囲の顰蹙を買ったというのである。ネット上で流れる「日本軍が植民地支配から解放したゆえに、インドネシア国民は親日的」という俗説をうのみにしたのだろうか。軍服姿でキャディーを従えて傲然と歩く日本人の姿に、インドネシアの人々がいかなる感情を抱くか、まったく理解できていない。歴史を知らないのである。

今を真摯に生き、未来を展望するために、人は過去から何かを学ぶしかない。8月は、歴史と向き合う月である。

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バタビア(現在のジャカルタ)を占領し、市街を歩く日本兵。見つめる地元女性の表情が印象的だ 
=1942年4月、毎日新聞社

日本軍政史料の展示会

記憶の風化に抵抗する、ささやかな試みがインドネシアで行われ日本でも紹介された。2018年8月ジャカルタにて、インドネシア教育文化省文化総局が、「日本軍政期インドネシア史料展――銃と桜の間で」を日本インドネシア国交樹立60周年記念事業として、開催した。インドネシア国立図書館、国立公文書館、アンタラ通信社所蔵の、日本軍が文化工作に使ったポスター、出版物、漫画、写真などを集めて展示したものである。

大きな反響があったことから、これを日本でも展示したいと、インドネシア文化総局は考えた。この求めに応じて、歴史家の倉沢愛子氏らが実行委員会を組織し、同委員会の主催で本年6月21日から29日まで立教大学図書館にて「日本軍政期インドネシア史料展」が開催されたのである。インドネシア政府(教育文化省文化総局、在日インドネシア大使館)、国際交流基金アジアセンター、立教大学が共催機関として、実行委員会を支えた。日本での展示には、インドネシア政府関係機関所蔵の史料に加えて、日本国内に眠っていた、占領期インドネシアにいた日本人個人が作成した絵、写真、手紙などもあわせて展示された。

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立教大学図書館で展示されたインドネシア政府作成の史料集
=筆者提供

日本軍政による文化工作

日本軍政下で行われていた文化に関わる活動の本質は、文化交流ではなく、日本軍政を円滑に行うためのプロパガンダである。

ジャワ島を占領、支配した日本陸軍第16軍は民心掌握を図るために宣伝班を設け、日本から動員された文化関係者がそこで働いていた。そのなかにはジャーナリストの大宅壮一、作家の阿部知二、武田麟太郎、詩人の大木惇夫、作曲家の飯田信夫、漫画家の横山隆一といったそうそうたる文化人が含まれている。

宣伝部の下部組織として1943年4月には「啓民文化指導所」が設けられ、文学、美術工芸、音楽、演劇、映画分野での人材育成が行われた。

武田麟太郎は、今回の展示会でも掲示されていた軍政下に発行されたグラフ誌「ジャワ・バル」9号に、「『啓民文化指導』小感」と題する小文を寄せている。そのなかで、従来のジャワの文学者を「非常にハデな外面活動に没頭するのが好きそう」と批判し、彼らを「旧オランダの政策に発生根拠を持つジャワの文化的ボス」とみなして遠ざけ、代わって啓民文化指導所に集う青年たちのなかから「大アジアを興す聖戦の精神をあますところなく具現してゐるやうなそんな文学者の次々の登場をまちたい」と述べている。

つまるところ武田にとって、ジャワの文化人は彼の指導する対象でしかなく、対等の立場で論じ話し合えるパートナーではありえなかったのである。

支配された側のしたたかな計算

前述した通り、私が最初にジャカルタに駐在した90年代はじめの頃は、日本軍政を実体験した世代がまだ生存していた。そのなかの一人が、オピニオンリーダーとして独立後のインドネシアの言論、文学を引っ張ってきた知識人ロシハン・アンワルである。ちょうどオランダが日本に降伏した日から50年目にあたる1992年3月9日、インドネシア社会科学院が開催したシンポジウムにおいてロシハンは「日本占領下の文化活動」という講演を行っている。彼は占領期に発行された日刊紙「アジア・ラヤ」の記者として、ジャーナリストとしての第一歩を踏み出した経験を有していたのだ。

日本人から「お前たち、原住民は皆、馬鹿野郎だ!」とどなられた思い出から、ロシハンは語り始めた。よほど占領期の日本人は、支配下にある人々に対して「馬鹿野郎」という言葉をあびせたのだろう。日本軍政を知る年配の人々の多くが、覚えている日本語として「バッギャロー」を挙げていた。

ロシハンは、日本軍政の目的を「連合軍に対する戦争遂行を継続させるため、インドネシアの地下資源、人的資源を搾取すること」にあったとして、「大東亜解放」はスローガンに過ぎなかったと断じた。日本軍政下の宣伝部の活動やマスメディアに関し、新聞もラジオも原稿はすべて軍の検閲を受けねばならず、表現の自由は全くなかった。

他方、「日本軍政は侵略戦争を容易ならしめるための苛政」と断じた上で、日本軍政の文化面でのインドネシアへの貢献を、ロシハンは認めていた。日本軍がオランダ語の使用を禁じ、代わってインドネシア語の使用を奨励した結果、インドネシア語の普及が進んだという点を彼は挙げた。彼自身、戦前オランダ式の教育を受けたためオランダ語が読み書き言語となっており、「アジア・ラヤ」に勤務するまでインドネシア語で書いたことがなかったのだ。苦労しながらインドネシア語を自らの言語へと血肉化したことが、独立後の言動活動の重要なツールとなった。

日本軍という強大な権力による教育や報道における使用言語の切り替えが、結果として独立後インドネシアの国民統合に大きな貢献をなしたのである。

ロシハン同様に、啓民文化指導所に集まった若いインドネシアの文学者、画家、映画人たちは、「日本はインドネシア独立のためにやってきたのではない。真の意図は別のところにある」と感じとりつつ、自らの力を蓄えるために啓民文化指導所に通った。「インドネシア映画の父」と呼ばれる映画監督ウスマイル・イスマイルも、この時期に啓民文化指導所に通い「映画が社会的コミュニケーションの手段として大きな機能を果たすことに気がついた」と回想している。

支配される側は、言われるがまま日本側の指導を受けていた訳ではない。したたかな計算がそこにはあったのだ。

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「従軍漫画家」としてジャワで暮らし、壁に日本兵と住民が握手する宣伝用の壁画を描く小野佐世
男=1942年3月、毎日新聞社

 

プロパガンダの枠を越えた画家

支配する側の、軍政への関わり方も多様であったことを、今回の展示は教えてくれる。大東亜共栄の理想を信じ、真面目に、誠実に、しかし上から目線で、日本の文化・価値観の発信に取り組んだ日本人文化人もいれば、軍上層部の方針に皮肉な目を向け、上からの命令を適当にやり過ごしつつ、インドネシアの人々と触れ合いながら日々の暮らしを生きた日本人もいたようだ。後者の代表は、画家の小野佐世男であろう。

小野は1920年代から50年代なかばに急逝するまで、油絵、漫画、イラスト、ポスターなどで女性画を描いて一世を風靡した画家であるが、戦時中は陸軍の報道班員として動員され、4年間ジャワで暮らした。彼が描いた画文は、軍のプロパガンダ・メディアに掲載されたのだが、これに加えて、自主的に占領下のジャワの街角の風景、村の生活、風俗、宗教、自然などを、小野は描いていた。これらの膨大な作品は、龍溪書舎から2012年に『小野佐世男ジャワ従軍画譜』として復刻出版されている。

当時のジャワ社会を生き生きと描いたスケッチとユーモアあふれる小文から、小野が肩ひじはらず、一人の個人としてジャワ社会の奥底まで分け入り、庶民の息づかいを感じ、彼らと交流していたであろうとうかがえる。佐世男の息子、映画・漫画評論家の小野耕世氏によれば、佐世男は若い画家たちとも積極的に交流し、前衛芸術など様々な刺激を与えたという。

小野佐世男がインドネシアに遺したものは、戦争プロパガンダという枠を越えている。

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「日本軍政期インドネシア史料展――銃と桜の間で」史料の表紙に使われた、小野佐世男によるスケッチ=筆者提供

眠っている貴重な史料の共有を

戦争を知らない世代に属する筆者は、初めてジャカルタに赴任した1989年当時、「自分が勤務する国際交流基金ジャカルタ日本文化センターは戦後の日本に誕生した平和目的の文化交流団体であり、軍のプロパガンダ機関である啓民文化指導所とは全く性格の違う組織」と考えていた。しかし、ジャカルタでインドネシアの人々との文化交流を重ねるなかで次第に、自分が働くジャカルタ日本文化センターという組織の体内にも、なにがしかの啓民文化指導所のDNAが流れているのではないか、と考えるようになった。

それには二つの含意がある。一つは文化交流事業と自称しても、相手の主体性への尊敬の念を欠いた一方的な発信では、プロパガンダに陥る可能性が常にあること、もう一つは、プロパガンダとみなされた事業のなかにも、小野佐世男のように人間的な温かみのある交流や触れ合いが現場には存在していたことである。

世代交代が進むなか、日本とインドネシアが協力して歴史記録を保存し、次の世代に継承する取り組みを強化する必要がある。展覧会のために来日したインドネシア教育文化省文化総局のトリアナ・ウランダリ歴史課長は、「日本とインドネシアが歴史を共有していくための文化協力が拡大されることを望む」と語った。

先の戦争では、かつてない規模の日本人がインドネシアに足を踏み入れ、そのなかにはメモや日記、家族への手紙という形でその経験を綴った人もいる。彼らが遺した史料は、日本インドネシア交流史にとって、貴重な歴史証言、歴史記録として価値あるものであろう。倉沢愛子氏は、6月26日に開催されたワークショップにおいて、自宅などに眠っている史料があったら提供してほしい、と呼びかけた。

ともすれば歴史は一面的なイメージで語られ固定化されがちであるが、実はもっと複雑で、様々な解釈が可能な多面性をもつものなのである。こうした歴史の多面性を雄弁に語ってくれるのが、一つ一つの史料なのだ。公文書の廃棄・改ざんが社会問題となり、記憶の風化が進む今こそ、史料を収集し、保存し、公開することの大切さをかみしめたい。

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インドネシア教育文化省文化総局のトリアナ・ウランダリ歴史課長=筆者提供