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小川 忠 (跡見学園女子大学教授、元国際交流基金ジャカルタ日本文化センター所長)

去る4月17日行われたインドネシア大統領選挙・議会選挙は、2億人近い有権者が直接自分たちの国の最高指導者を選ぶ、世界でも有数の規模の民主選挙である。選挙結果の確定まで1カ月以上かかった。また今回は、この国史上初めて大統領選挙と国会議員選挙・地方代表議会選挙が同時に行われた。有権者にとってきわめてややこしい選挙となった。

内外が注目する大統領選挙の結果に関し、5月21日インドネシア選挙管理委員会が最終的な公式集計結果を発表し、現職ジョコ・ウィドド(通称ジョコウィ)大統領が対立候補のプラボウォ・スビアントに勝利した。得票率はジョコウィ組55・5%、プラボウォ組45・5%で、10%の差がある。しかし、プラボウォは「今回の選挙には度が過ぎる不正があった」と主張し、大衆抗議運動を展開すると公言し、21日の夜からジャカルタ中心部でデモや集会を行い、一部暴徒化した群衆と治安部隊の衝突が発生し、数名の死者と数百名の負傷者が出る事態となった。プラボウォ氏はまだ矛先をおさめておらず、24日憲法裁判所に異議を申し立てた。同裁判所は6月末までに判断を示す予定だが、これからまだひと波乱、ふた波乱あるかもしれない。とはいえ、ジョコウィ再選は動くまい。

暗雲が立ちこめ始めた「多様性の中の統一

今回の選挙の特徴をいくつか挙げると、まず以前に本連載で言及した通りインドネシアの急速なデジタル社会化を背景に、両陣営がソーシャル・メディア選挙に力を入れたことだ。ソーシャル・メディア空間を舞台に、米国の選挙のように選挙参謀の緻密な戦略に基づくネガティブ・キャンペーンが展開され、誹謗中傷合戦の攻防が繰りひろげられ、それが有権者の投票行動に少なからぬ影響を及ぼした。

第2の特徴として、上記のようなソーシャル・メディア上の情報戦において、政策論争よりも、人種、民族、宗教などに基づいて有権者を糾合し、多数派形成を図り、対抗陣営を攻撃するアイデンティティー政治の手法が用いられ、この国が建国以来の理想として掲げてきた国民統合の理想「多様性の中の統一」に暗雲が立ちこめ始めたことである。

具体的に言うと、インドネシアの政治において、イスラムという宗教の存在感が拡大し、この国の政治全体のイスラム化が顕著なものになりつつある。ジョコウィ、プラボウォ両候補ともに有力イスラム組織指導者にしきりとアプローチし、イスラム指導者も政治に影響を与えるコメントをためらわない。

そもそも国民の9割がイスラム教徒で、世界最多のムスリム人口を有するインドネシアであるが、建国時の政治指導者、イスラム指導者は少数派宗教にも目配りして、あえてイスラムを国教とせず、世俗主義、政教分離的な政治体制を選択し、「多様性の中の統一」の理想を磨いてきた。過去にもイスラム政治利用の試みはあった。2012年、当時新進気鋭の地方市長だったジョコウィがジャカルタ知事選に立候補した時、副知事候補として指名したのは華人系クリスチャンのバスキ・プルナマ(通称アホック)だった。その際、対立陣営はアホックが華人・クリスチャンであることを攻撃した。しかし、そのようなネガティブ・キャンペーンをジャカルタ市民はよしとせず、ジョコウィ・アホック組が当選した。

潮目が変わったのは16年である。ジョコウィが大統領に就任したのに伴い、ジャカルタ知事に昇格したアホックは、行動力・決断力ある知事として人気があった。翌年予定されていた知事選では当選確実と考えられていた。そんな彼が選挙期間中にクルアーンを冒涜する発言をしたとして、イスラム急進派勢力が10万人を超える抗議集会をジャカルタで決行し、アホックの人気は急落。翌年の知事選に敗れた彼は宗教冒涜の罪で有罪判決を受け失脚した。

かつてアホックを知事選パートナーとして指名したジョコウィに対し、今回の選挙において「ジョコウィは反イスラム」「ジョコウィは実は華人」といった中傷が流され、それを打ち消すことにジョコウィは多大な労力消費を強いられた。たとえば、これまで若々しさ、リベラル色を前面に出してきた彼が、保守的な宗教見解を連発してきた老イスラム指導者マァルフ・アミンを、今回副大統領候補として指名した。「反イスラム」というレッテル貼りを封じ込めるために熟慮した末の選択だったのだろう。

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大統領選の勝利を住民と一緒に祝うジョコ・ウィドド大統領(中央左)と副大統領に就任するマアルフ ・アミン氏(同右)=ジャカルタで2019年5月21日、武内彩撮影

「イスラムが勝者」なのか

このようにインドネシア政治のイスラム化が進行するなかで、「今回の大統領選挙の真の勝者はイスラム」という論評も見かけるが、これは誤解を生みやすい表現である。というのは、この表現は「イスラム勢力は一枚岩」という印象を与えるが、実はイスラム内部において政治と宗教の関わり方については多様な見解が存在し、今回の選挙を通じてそうした見解の相違・対立がさらに深まり、イスラム内部に亀裂が生じている、と見ることもできるからである。

もう少し細かく投票結果を見てみよう。表は選挙管理委員会が発表した州別の両陣営得票率である。バリ・ヒンドゥー教徒が多数を占めるバリ州91・68%を筆頭に、パプア州90・66%、東ヌサ・トゥンガラ州88・57%、西パプア州79・81%、北スラウェシ州77・24%など非イスラム系住民比率の高い州で、ジョコウィ組は圧倒的な勝利を収めている。他方、西スマトラ州85・92%、イスラム法を州条例にしているアチェ州85・59%、西ヌサ・トウンガラ州67・89%など厳格なイスラム信仰の強い州は、プラボウォに票を投じた。概して非イスラムはジョコウィ、厳格なイスラムはプラボウォを支持した、といえる。前回14年選挙と同じ投票パターンである。

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今回の選挙でキャスティング・ボートを握ったのは、大票田ジャワ島の各州である。習合的なイスラム色が強い東ジャワ、ジョクジャカルタ、中部ジャワ州でジョコウィが勝利し、スマトラ島に近く厳格なイスラム教徒の多い西ジャワ、バンテン州でプラボウォが勝利した。これも14年選挙と同じパターンなのだが、東ジャワ(14年53・17&→19年65・79%)、ジョクジャカルタ(14年55・81%→19 年69・03%)、中部ジャワ(14年66・65%→19年77・29%)と、ジョコウィ支持率が格段と上がった。首都ジャカルタは、ジョコウィ51・68%、プラボウォ48・32%と接戦だった。典型的なジャワ・イスラム地域の東・中部ジャワで地滑り的勝利を得たことで、ジョコウィは再選を果たすことができたのである。

激しかった「ジャワの戦い」については、選挙期間中に発行された「テンポ」誌(2・26号)が報じている。東ジャワは、インドネシア最大のイスラム組織ナフダトゥル・ウラマーの牙城として知られている。ナフダトゥル・ウラマー(NU)は公式的には政治的中立を宣言しているが、同組織の有力イスラム指導者(キアイ)の多くは実質的にジョコウィ支持を表明していた。彼らは、伝統的なイスラム寄宿舎プサントレンを運営し、青年たちや地域住民の尊敬を集めており、その言動の地域における影響力は大きい。ジョコウィ一期目の業績に不満を募らせていた有力キアイ、ハシブ・ワハブ師に、「自派にとりこむチャンス」とみたプラボウォ候補が面会にやってきた。ハシブ師は彼に、「あなたの背後に反NUのイスラム急進派がいるのではないか」と疑念を述べた。これに対して、プラボウォは自らのイスラム信仰について説明し、「自分は急進派ではなく、穏健イスラム」と申し開きをして、ハシブ師の支持をとりつけることに成功した。

ハシブ師はプラボウォ支持に回ったがNUの宗教指導者の多くは、プラボウォを支持するイスラム勢力を強く警戒している。巨大組織NUには、イスラムと政治の関係について様々な見解をもつイスラム指導者が存在するが、そもそも近代改革派に対抗して、伝統保守派を糾合する目的から創設された組織であるため、ジャワで育まれたジャワ・イスラムの伝統を重視する気風が強い。

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各州別の今回大統領選結果(赤はジョコウィ、オレンジはプラボウォが勝利)

プラボウォを取り巻くイスラム勢力のことを、「インドネシアに根付いた他宗教と共存してきた習合的・伝統的イスラムを否定し、中東のイスラム主義組織のようにイスラム法による支配を急進的に追求しようとするワッハーブ主義をインドネシアのイスラム内部に持ちこもうとしている」と考えているのである。

 

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約8万人収容のスタジアムがプラボウォ氏の支持者で超満員になった大統領選の選挙運動=ジャカルタ で19年4月7日、武内撮影

中部・東ジャワでのジョコウィの圧勝は、伝統保守と中道イスラムが結束して急進右派イスラムの浸透を阻止した、イスラム内部の路線対立の帰結でもあった。

「アバンガン・サントリ・プリヤイ」――3分類で考える

東、中部ジャワのイスラム教徒の投票行動が勝敗を決した今回の選挙結果に関連して、複数のインドネシア研究者から久しぶりに「アバンガン・サントリ・プリヤイ」という言葉を耳にした。ジョコウィ対プラボウォ両陣営の戦いは、意外な共闘があったり、過去の味方が敵方に寝返ったりと、なかなかややこしい。イスラムも、その最大組織であるNUをみても一枚岩ではなく、複雑だ。そうした複雑な構図に、補助線を引いてみることによって核心を理解しようというのである。

「アバンガン・サントリ・プリヤイ」は、米国の文化人類学者クリフォード・ギアツがジャワ社会を分析するために用いた概念だ。間芋谷栄の解説を借りると、ギアツは16世紀から19世紀の間にジャワ社会に三つの文化類型が形成されたと考えた。「アニミズム・呪術的要素を強調するアバンガン」「イスラム教的要素を強調するサントリ」「ヒンドゥー教・仏教的要素を強調するプリヤイ」である。これら3要素が20世紀に入って政党支持に結びつき、イデオロギー化していったとギアツは説いた。しかし、このギアツの分類は、宗教と階層の混同があり、ジャワ文化への誤解があると批判するインドネシア研究者も多く、近年学術的に注目度は下がっていたのである。

ダルマ・プルサダ大学のイダムシャ講師は、スマトラ・イスラムとは違うジャワ・イスラムの個性に注目し、今回の大統領選挙でジョコウィを支持したのは、「非イスラム」、「穏健イスラム」に加えて「ジャワ・イスラム(アバンガン・サントリ・プリヤイ)」であったとみる。

シンガポール南洋工科大学フェローのシャフィク・ハシムは、ジャワでのフィールド・ワークに基づいて、現代のジャワ社会ではアバンガン・サントリ・プリヤイそれぞれのアイデンティティーの垣根は低いものとなり、それぞれが相互に影響を及ぼしあい、その境界線はあいまいなものになりつつある、と主張している。別の言い方をすれば、従来あまり熱心なイスラムでなかったアバンガン、ヒンドゥー・仏教宮廷文化色の強かったプリヤイのあいだでイスラム意識が強まり、彼らの「サントリ化」が進んでいる。つまりジャワ社会全体が「イスラム化」の方向に傾いているということだ。

しかし、その「サントリ化(イスラム化)」は単線的なものでなく、「サントリ化したアバンガン」はNUのような伝統保守的なイスラムと結び付き、「サントリ化したプリヤイ」は近代派、改革派イスラムと結び付く傾向があるという。

最後に述べておきたいのは、グローバリゼーション時代におけるインドネシアの大統領選挙は世界の潮流と無縁なものでなく共鳴していることを実感する。

民主主義の本家と考えられてきた欧米諸国ではここ数年、英国の国民投票によるEU離脱論争、米国のトランプ大統領当選、ポピュリズムと排外主義の台頭等、民主主義の機能不全状態が顕著なものとなりつつある。経済のグローバリゼーションやインターネットの浸透により、先進国社会の平準化が進む中で、人びとは宗教、ジェンダー、エスニシティ―等を基に自らの拠りどころを求め、「違い」を打ち出して、いがみあう。

ソーシャル・メディアやネガティブ・キャンペーンなど米国流の選挙手法が持ちこまれアイデンティティー政治の色彩を強める2019年インドネシアの選挙からも、欧米同様、民主主義のジレンマを垣間見ることができる。今日の欧米民主主義の危機的状況を生んでいる要因として、経済の停滞、中間層の没落が指摘されているのに対して、インドネシアでは依然として経済発展、中間層の拡大が続いている。中間層の拡大が続いているのにもかかわらず、インドネシアでも民主主義のこれからについて憂慮すべき状況が出てきたことをどう考えたらいいのか。中間層の没落だけでは、現在世界の民主主義が直面している危機を説明できない、ということだ。