陳言の中国「創新経済」

「人民日報」海外版の元編集長、詹国枢氏は最近、「世界の民間ドローン市場で、大疆(DJI)はすでに85%のシェアを占めている。米軍が封鎖策を講じているにもかかわらず、米国市場の74%を占めている」と論評した。筆者がさらに重視しているのは、中国では急成長している企業は瞬く間に数えきれないライバルが現れるということである。

さて、DJIの強みはどこにあるのか。

創業者は5年で修士号

百度(バイドゥ)会長兼最高経営責任者(CEO)の李彦宏氏は北京大学卒業後、ニューヨーク大学で研さんを深め、米国での仕事によって、国際ビジネスのルールを習得した。捜狐(SOHU )CEOの張朝陽氏は武漢大学卒業後、米国マサチューセッツ工科大学でさらに学んだ。

しかし、DJI代表の汪滔氏は華東師範大学を3年で中退し、香港科技大学電子工学系に入学し、本科は卒業したが、成績でどんでん返しは起きず、卒業したデザイン学科はかろうじて彼にCをひとつ与えただけだった。2年制の大学院修士課程で彼は5年をかけてやっと修士号を取得した。

汪氏が李、張両氏と最も違うところは、彼は技術的に独自の道を歩み、他人の成果には目もくれず、絶えず新しさを追求したことである。

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香港科技大時代に汪氏がロボットコンテストに2度参加した。香港で優勝し、アジア太平洋地区で第3位の銅を獲得した。汪氏は大学に1万8000香港㌦の経費を申請し、5カ月間奮闘し、ヘリコプターを空中停止させるフライトコントロールシステムを開発した。

2006年、汪氏は卒業前だったが、同級生と深圳に向かい、20平方㍍足らずの古ぼけた倉庫の一室を借りた。ここでDJIが誕生した。

DJIが作ろうとしたのは誰でも遊びながら使える低価格の小型無人機(ドローン)だった。

12年、同社は「DJIファントム1」をデビューさせた。初めて試してみたユーザーは「ドローンでこれほど簡単に遊べるとは思わなかった」と感心した。当時、他社製品は1万5000㌦前後だったが、操作が簡単なDJI製品はわずか679㌦だった。このドローンはすぐに市場に出回り、理工系大学卒業生に好評だった。

14年、DJIはファントム2を発売した。ファントム1に比べて優れた撮影機能が備わっていた。これは同年の米誌「タイム」が選ぶ世界科学技術製品の年間ベストテンの中に中国製品として唯一入ったのだ。

しかも次のように賞賛だった。「スマートフォン、ハイテクカメラはさまざまな撮影世界を見せてくれたが、カメラを搭載したドローンが撮影空間を拡大した功績には及ばない。しかもドローンの中で、ファントム2ビジョン・プラスほど画期的な製品は見当たらない」

1年後の15年3月、DJIはファントム3を発売した。これは正真正銘の一体式の4ロータードローンである。前の2世代の製品には自社のカメラは搭載せず、映像伝送も他社製品を使っていた。しかし、ファントム3ではGOPROと決裂後、独自のカメラを研究開発し、映像伝送も自社でデジタル伝送を開発、加えて3軸ジンバルスタビライザーを搭載し、DJIドローンを最高級製品に仕立て上げた。

DJIは1年足らずでファントム4を売り出した。これまた人々を大いに驚かせた。これの最大の目玉は自動障害物回避、ピンポイント飛行と視角追跡で、この3大イノベーションは他社のライバル商品を全く寄せつけなかった。

それからわずか半年後、同社はMAVICシリーズを発表し、ファントム4が持っていた技術をさらにレベルアップした。

技術開発力でライバル圧倒

DJIがドローンの覇者になった後、国内外から「DJI封じ」を掲げる大量の同業者が現れた。それでは、これらのライバルはDJIで死んだのか、退場させられたのか、どうにか生き延びたのか。

米国1位の3DROBOTICSはかつて「DJIの強力なライバル」と称された。13年、同社は3000万㌦の投資を受け、企業の推定価格は3億6000万㌦に達し、米国1位、世界2位となった。元DJIの米国子会社社長の吉恩氏はDJIと考えの違いから口論となり、3DROBOTICSに鞍替えして雪辱戦の構えだった。元3DROBOTICSの職員によると、吉恩氏は会議でいつも「DJIを殺してやる」と言っていたそうだ。
2年後、3DROBOTICSは全資金を投入してドローンSOLOを小売価格1700㌦で世に出した。しかし、4カ月後にDJIが発表したファントム3はSOLOに比べて格安の700㌦ちょうどで、しかも価格も技術もSOLOを圧倒しているではないか。大量のSOLOが売れずに倉庫に眠ったままだった。3DROBOTICSの資金チェーンは瞬く間に崩壊し、消費者向けドローン業務の終結を宣言せざるを得ず、米国市場がDJIに席巻されるのを指をくわえて見なければならなかった。

この時、DJIは新手のライバル、零度智控(ZEROTECK)に遭遇した。16年5月、DJIのファントム4が売り出されたばかりだったが、零度が設計したのは「ポケットドローン」のDOBBYだった。この機種は確実に勢いがあり、総重量わずか200㌘で、ポケットに入り、カメラプラットフォームを搭載するゴンドラは不要だった。価格は2000元前後で全体の好感度は99%を上回った。1カ月後、DJIの画期的なMAVICシリーズが市場に参入した。DJIの新製品は総重量を743㌘に落とし、折りたたむと550㍉のミネラルウォーターの瓶と変わらず、価格は5000元。しかも、飛行時間、映像伝送、着陸精度等々の性能では少しも妥協せず、全てDOBBYを圧倒した。16年末日、零度は100人余の人員削減を宣言した。

過去5年の間に、DJIは圧倒的な技術力によって、市場独占を実現し、18年のシェアを見ると、世界の民用ドローン市場の85%を占め、その他ブランドの製品は「その他」の項目にひとまとめにされている。

制裁にめげずシェアを拡大

17年、早くも米陸軍省司令部はDJIがデータを窃取したと公表したが、後に、科学研究機関の報告によってデータ窃取の事実は存在しないことが証明されたが、米軍のDJI封じは堅持された。しかし、米国の制裁が1年続いた後、人々はDJIの市場シェアが意外なことに、2㌽上昇し、全米市場の74%に達していることに気がついた。

18年5月、米空軍特殊部隊は調達の際に、小さな字体でこっそり次のように書いた。「作戦任務が緊急を要しており、米国本土の代替品が欠乏しているので、35機のDJIドローンを調達するよう希望する」。切羽詰まって、米軍はDJIドローンを使わざるを得なかった。

米空軍が一石を投じたことで、同盟国もこれに続き、米軍が訓練していたイラク特殊部隊が喜んでDJI製品を使い始めた。イスラエル軍も大量のDJI製品を購入し、一説によると1万機購入したという。一貫して中国製品の抑制してきたインドもこれに続いて「爆買い」に乗り出した。

19年、パリのノートルダム大聖堂の火災の際、DJIのドローンが上空から火勢抑制に必用なデータを入手し、パリの消防本部から好評を得た。

14年の同社の年間営業収入はおおむね27億2000万元、15年は59億8000万元、16年は97億8000万元、17年には175億7000万元に達し、毎年ほぼ倍増している。

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コア技術保持が強み

李、張両氏らは米国の技術を中国に持ち込み、大量のトラフィックを獲得し、ビジネス的に成功した時、壁にぶつかっていた技術の改善は骨折り損のくたびれ儲けだった。

一方、汪氏のDJIは絶えず技術進歩を通じて、ドローン産業のハードルを引き上げ、短時間の間に十数代も更新した。中国国内のドローン産業は膨張し100社以上が参入しているが、技術的にDJIに追随できる企業はほんの数社である。

12年から、DJIはドローン製造のソフト、ハードの施設を整備し、ソフト開発からプロペラ、フレーム、ジンバル、プロポ-ショナル・システムなどの部品は全て自社の知的財産権を持ち、全て中国製にしている。

こうしたコア技術の特許権を握ることによって、国際市場における余裕も生まれてくる。コア技術で米国に対するいかなる依存もない。

汪氏はいつも「われわれは全世界で最高に達しない製品を作る習慣は全くない」と言っている。「世界で二流、三流の製品を作って安売りで勝とうとは思わない。安さは本来の目的ではなく、それでは良い物はつくれない」

米国との貿易戦争中、華為技術(ファーウェイ)は頑強に戦っているが、同時にDJIもますます勇敢になり、不撓不屈の企業に成長している。

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■陳言

1960年、北京生まれ。82年、南京大学卒。82-89年『経済日報』に勤務。89-99年、東京大学(ジャーナリズム)、慶応大学(経済学)に留学。99-2003年萩国際大学教授。03-10年経済日報月刊『経済』主筆。10年から日本企業(中国)研究院執行院長。現在は「人民中国」副総編集長も務める。