荒木英仁のインクレディブル・インディア

停滞の農業に変革もたらす新農業法――――日本企業にもアグリビジネス参入好機

■荒木英仁(あらき・ひでひと)

毎日アジアビジネス研究所シニアフェロー、インドビジネスコンサルタント
長年、大手広告代理店「アサツー・ディ・ケイ」の海外事業に従事し、2005年から9年間、同社インド法人社長。14年春グルガオンにて「Casa Blanka Consulting」社を設立し、日本企業との提携を求めるインド企業を支援。監査法人「Udyen Jain & Associates」と業務提携し、日本企業のインド進出や現地でのコンプライアンスを支援。インド最大手私銀「ICICI Bank」のアドバイザーや、JETROの「中小企業海外展開現地支援プラットフォーム」コーディネーターも務める在印15年強のベテラン。

ディワリ控え活気戻る市街

新型コロナ累積感染者数は800万人を超えているものの、インド経済は確実に前進している。日本のメディアではインドの累積感染者数値がフォーカスされる事が多い。人口が13億人以上いる事も大きな要因であるが、毎日95万人前後のPCR検査が実施されている結果でもある。現時点で既に1億人以上の国民が検査済となっている。

10月中旬からは映画館も解禁、一部の学校も登校が認められるようになった。これで国際線定期便の乗り入れ以外は、一般市民の生活はコロナ前にほぼ戻った感じである。9月に毎日10万人程増加が続いた新規感染者数もここへ来てピーク時の半数以下まで下がってきた。幸い致死率も1・5%内外で推移しており、市民のコロナに対する恐怖感は薄れ、インド最大の祭事であるディワリを控え街には活気が戻っている。

10月16日にインド自動車工業会(SIAM)が発表した内容によると、インドの製造業を牽引している自動車産業が活気づいて来ている。9月度の乗用車販売(多目的車=UV=とバンを含む)は、祭事期の特需に合わせ前年同月比26・5%増の27万2027台に拡大した。うち、一般乗用車は28・9%増の16万3981台、UVは24・5%増の9万6633台、バンは10・6%増の1万1413台と、いずれも2桁台の伸び率を記録した。

主要自動車メーカー12社のうち、8社がプラス成長となった。首位のマルチ・スズキは前年同月比33・9%増の14万7912台と堅調な伸びを続けた。2位の現代自動車は23・6%増の5万313台となった。また、3位の起亜自動車(最後発の韓国メーカー)も、市場に新しく導入した小型SUV「ソネット」および「セルトス」の堅調な売れ行きで、約2・5倍の1万8676台となり、最も高い伸び率を示した。日系企業の日産、トヨタなどを含む4社は売上の減少が続くものの、各社の販売は持ち直しの傾向をみせている。

また景気回復のカンフル材として、インドの財務省は新型コロナウイルスの感染拡大以降初めてとなる需要喚起策を発表した。対策の内容は、政府職員を対象とした個人消費の喚起と公共設備投資の促進の2分野。これにより、政府は総額7300億ルピー(約1兆220億円)の需要創出を見込む。個人消費喚起政策として政府機関の全職員へ現金支給し、2021年3月までに12%以上の物品・サービス税(GST)が課せられている商品を一定額以上購入することが義務付けた。この施策により需要創出は2800億ルピーとなる。更に、祭事(インド最大のお祭りディワリ等)に合わせて1万ルピーを中央政府の職員にボーナスの代わりに前払いするスキームを実施。これも上記現金支給同様に2021年3月末までの支出を義務付けている。1万ルピーは返済が必要だが、無利子かつ10回払いでの返済が可能だ。これにより更に800億ルピーの需要創出を見込む。

公共設備投資促進政策のひとつは、州政府への特別支援で、中央政府は州政府の資本的支出に対し、総額1200億ルピーの50年無利子ローンを提供する。二つ目は中央政府予算の増強で、2500億ルピーを追加し、道路、防衛、水供給、都市開発、国内生産の資本設備などに充てる。これらの政府主導の施策で需要が喚起されることで、進出日系企業が存在感を発揮する自動車や電化製品などの分野でも消費の拡大が期待される。

農業への投資拡大促す新農業法

このコロナ禍の中で、インドの農業大改革が一気に進むきっかけとなりうる新法案が可決した。インド議会は9月20日、農家が農産品を民間業者向けに直接販売をしやすくするための新農業法案(Farm Bill2020)を可決した。

この法案は、現行法の改正および中間流通業者(現状5~7社の業者が存在する複雑な仕組み)の排除を進めて、農家が農産品をスーパーマーケットやオンライン食品販売会社等を含む流通会社、大手小売チェーンと直接取引「Farm to Fork」を行うことを可能にする狙いがある(表1=下)。

今まで複雑な流通経路によって農家からの仕入れ値に対し我々が購入する大都市部のマーケットの価格は8~10倍に膨れ上がっていた。最近はモダンリテールが拡大してきて近代的なスーパーマーケット等で一年中比較的新鮮な野菜が入手出来る様になってきたが、未だ大半の野菜売り場は冷蔵機器も無く、気温が50度近くあがるデリーの夏場は新鮮な野菜や果物は殆ど入手不可能である。

これまで小規模かつ細分化された農地、低水準の生産性、冷蔵貯蔵倉庫を含むコールドチェーン等のロジスティック・インフラの未整備、金融支援制度の遅れなど様々な要因が国内農業の発展を阻害して来た。人口の半数近くを農業従事者が占めるインドでは、大規模な農業改革の必要性が数十年前から議論されてきた中でようやくモディ政権が重い腰を上げた事は快挙である。

この新たな法案は① 必需商品法(Essential Commodities Bill)改正、②農家による農産品取引の推進(The Farmers’Produce Trade and Commerce=Promotion &Facilitation=Bill)、③農業就労者の権限保護・強化のための価格保証協約/農業サービス付与(The Farmers=Empowerment and Protection=Agreement on Price Assuranceand Farm Service Bill)の3本柱から成り立つ。

法案の狙いは大きく分けて、農家所得の向上、農業生産性の向上、民間企業による農業部門への投資拡大にある。具体策としては、①一部の必需農産品の供給規制を撤廃し、在庫制限の導入を価格とリンクさせる、②農産品の州内・州間の取引(オンライン取引を含む)については、州政府による手数料、地方税、課徴金を撤廃し、自由化する、③農家の買い手との直接取引を認め、適切な代表者制度と紛争処理メカニズムを整備することが掲げられた。

今までほとんどの農家は、農産品の大部分を州政府管轄下の卸売市場で、政府による保証価格で売却せざるを得なかった。卸売市場「マンディ」は農家(通常は大規模農家)と中間取引業者で構成される農産品流通委員会によって運営されている。中間取引業者は農産品の販売促進、保管、輸送を担うほか、必要な場合は農家向け金融もアレンジする。結果としてエンドユーザーに渡る時点で原価からは程遠い(原価の8~10倍の)取引価格で取引される事になる。この法案通りに流通経路が改革されれば、今まで無駄に摂取されていた大部分のマージンが取り除かれ、市場適正価格をベースとした買価となり、生産者がより多くの利益を享受出来る事と成り得る。

勿論、農業改革が新法案どおりに進むかどうかは依然不確定要素が多いが、そうした改革が農家の自由市場へのより良いアクセスにつながるとすれば、インド農業に著しい変化が起きる可能性がある。意外に知られていないが、インドが生産量世界1位又は2位の農産品は多い(表2=下)。しかし、効率的な輸出も含め農家の利益享受に繋がっていない。インフラ(コールドチェーン)の未整備、サプライチェーンの遅れ等解決しなくてならない課題は山積みである。

世界有数の農業国も伸び悩み

インドは1億6946万ヘクタール(世界第1位)もの広大な農地を有する。1947年の独立後、食糧生産が停滞して穀物の輸入大国となっていたが、1960年代の食糧危機をきっかけに「緑の革命」を開始した。米・小麦の高収量品種の普及や化学肥料や農薬の投入、管井戸灌漑の導入などを行った結果、穀物生産が飛躍的に増加して70年代に国内自給を達成した。一方、インドの穀物の単収(単位面積当たりの収量)は3・5トン/ヘクタールと、世界平均の4・1トン/ヘクタールを下回る。断続的な水不足など様々な制約があり伸び悩んでいるのが現状だ。

また農業のGDPに占める割合は1950年代の60%程度から現在14%程度まで縮小するなど農業の相対的地位は低下している。この様な経済発展による産業構造の変化はインドに限った話では無く、発展途上国から先進国への産業高度化の過程で良く見られる傾向である。それでもインドの就労人口の約5割は未だ農業に従事している。毎年2000万人程度増え続ける人口の中、非農業が雇用できる数は未だ限定的な為、農業への流入は止まる事は無い。ただでさえ収益率の低い農業の就労人口が増加すれば当然一人当たりの収入は限定的に成らざるを得ない。インド経済にとって農業の収益性アップは急務である。

近年消費者の所得向上や急速な都市化などから消費者のライフスタイルが変化し、食生活は穀物中心から野菜や果物などに大きくシフトしてきている。また、高付加価値食品にプレミアムを支払う層も拡大して来ており、その代表であるオーガニック食品の市場規模は2018年の7億ドルから24年には21億ドルまで拡大すると予測されている。この様に市場が急激に変化を遂げる中で、この変化に対応している農家は限りなく少ない。

農民の多くは十分な教育を受けておらず、30%の農民は読み書きすらできない。また自ら望んで農業に従事していない者が多いために向上心は低く、より利益の見込める作物の選択や栽培方法、販売先などを選択することができないと指摘されている。右肩上がりに増え続ける市場の需要に合わせて、多様化に対応出来ない事も農業収入が増えない大きな要因となっている。

従来農産品は、1954年に制定された農産品流通委員会法(Agricultural ProduceMarket Committee・APMC)に基づき、州政府管轄の卸売市場である「マンディ」で通商許可を持つ仲買人による農産物の競りが行われてきた。しかし、仲買人は競争がないために取引を支配しており、農産物を持ち寄った農家は提示された価格を受け入れるしかないという不当な扱いを受けてきた。収穫した農産物が消費者のもとに届くまでには複数の仲買人を渡る。また仲買人は農家と販売先の双方から二重の手数料を受け取り、農家にとってムダな仲介コストにより最終小売価格の2割以下にまで収入が圧縮されてきた。

輸送インフラや貯蔵・加工施設の問題も大きい。多くの地域では安全な輸送インフラが整っていないために商品の形が損なわれるほか、配送が遅れがちになる。また農作物を収穫した後、農家や市場の保管状態が悪いためにネズミや雑菌の被害、浸水被害などを受けやすく、特に果物や野菜などの生鮮食品については約30~40%の農産物が廃棄されてしまっている。

インドの気候は熱帯または亜熱帯モンスーン地域に属しており、農地に水を供給できれば年2回の耕作が可能であるが、農産物の生育は熱波や干ばつ、洪水などに左右されがちである。「緑の革命」以降、灌漑整備は地下水を利用した井戸灌漑を中心に着実に進んできたものの、現在でも普及率は農地面積の約半分に止まる。こうした灌漑が整備されていない地域は天水農業となっており、天候に左右される不安定な農業経営を強いられている。更に灌漑が整備されている地域では、貯水意識が欠如しているため、過剰に地下水を汲み上げた結果、地下水位が低下し、枯渇する恐れが高まってきているほか、塩害などの土壌汚染も広がってきている。

1960年代後半には公的分配システム(Public Distribution System・PDS)を開始した。PDSは食糧流通政策の根幹であり、現在では農家に対して作物価格を保証する一方、消費者に対して安定した価格で提供する機能を果してきた。PDSは政府が米や小麦等の必需品を買い上げて市場価格よりも低い価格で貧困層に提供する制度となっており、主に(1)貧困層に対する食料の安全供給、(2)生産者に対する買い上げ価格の保証、(3)政府が緩衝在庫を保有して不測の事態に備え、食料の供給と市場価格を安定化させることを目的として行われてきた。政府は農家の所得保証として最低保証価格を引き上げる一方、貧困層に食料を行き渡せるために販売価格を低く据え置いている。このため、FCI(Food Corporation India)の売上と農作物の買い上げや輸送、在庫管理などにかかる諸費用との差額はマイナスになり、政府の財政負担(食料補助金として計上)となっている。

また、PDSを通じて調達される作物は米や小麦など一部の作物に限られているために、農家は政府の価格保証のある作物の栽培に固執し、政府は必要以上にコメや小麦の在庫を抱えてしまいがちである。2018年以降は穀物価格が上昇、農業労働者の賃金も上向いてはいるものの、原油や電力など農業投入財の値上がりが続いたため、結果として生産コストが上昇して農家の利益が目減りする状況が続いていた。

企業の農業ビジネス参入は必至

この様に今までインドの農業部門は州単位の色々な制約のもと、数多くの課題を抱えてきた。農家の零細・小規模経営や技術導入の遅れが生産性向上を阻害すると共に、サプライチェーンにおける非効率な市場とインフラ整備の遅れが農家の収益性を損なってきた。また気候変化や農業金融へのアクセスが難しいことが農業を不安定なものにしているため、農民は貧困状態から抜け出せず、高成長を続ける非農業部門との間で所得格差が広がっていた。

今回の新法案可決によりあらゆるプライベートセクターの企業が農業ビジネスに参入して来る事は容易に想像でき、数十年停滞して来たインドの農業に大きな変化が訪れるのは時間の問題と考える。今後の農業における生産性向上には、プライベートセクター参画による、経営規模の拡大と同時に、機械化や生産知識の習得などの技術力向上、農業金融の拡充。更にリアルな市場需要に合わせた、畜産(卵、乳製品)や園芸(野菜、果樹、花卉)など生産の多角化、そして種子・肥料や灌漑整備、研究開発といった農業分野への投資拡大が進むと思われる。

またコールドチェーンの整備や食品加工団地の整備によるフードバリューチェーンの構築などに民間部門が呼応することによって農業部門の更なる収益性の向上が期待できる。中央政府の食品加工業省(Ministry of Food Processing Industries)も各種コールドチェーンに関わる投資に対しては35%(一般地域)~75%(北東地方)のインセンティブを供給する等のスキームを積極的に推進している。

また農業大国かつ消費大国であるインドは農業の6次産業化(生産・加工・販売を一体化する農業手法)に大きな潜在性がある。農村を基盤とする農業関連産業に弾みがつくと、ボトルネックになっている小規模経営の問題の改善にも繋がる。この分野は農業及びコールドチェーン先進国である日本企業にとってはインド農業ビジネスへの参入チャンスである。

インドでは電力・通信インフラの整備が進むなか、2016年にはインドの携帯電話会社リライアンス・ジオ・インフォコムが参入して価格競争に拍車がかかり(データ使用料1ギガ20円程度)、比較的貧しい人でも常時インターネット接続が可能となった。現在、携帯電話は単なる通信手段としての機能に止まらず、農業部門に存在する情報格差をなくし、また多様なサービスを受ける手段となっている。

ここ数年で農家がインターネットに繋がり始めたことからアグリテックに関するITベンチャーが次々に立ち上がっている。アグリテックのサービスは大きく分けて二つある。一つはインターネットを通じて気象や疫病、土壌の監視、また種子や肥料、灌漑管理、栽培、収穫など農作業のアドバイスを行うサービス、もう一つは農家が最終消費者(食品メーカーやレストランなど)に直接販売できるオンラインの農産品マーケットプレイスを提供し、商品の集荷から保管、配送まで手掛けることでサプライチェーンを効率化するサービスである。

特に近年需要が拡大している野菜や果物などを対象とした流通を一手に担うフルフィルメントによるビジネスを拡大している代表的な企業Ninjacartは注目される新たなビジネスモデルである。この会社は農家やFPO(小規模・零細農家の集合体/契約農業)から直接集荷し、自社のサービスセンターで農作物の分類、品質管理し包装まで施した後に小売店に配送する。従来の複雑な流通経路を通さない事で農家にとって従来に比べ15~20%高い値段で売れる様になった。また小売り店側も品質管理された農産物が5~10%安く仕入れる事が出来た。正に「WIN-WIN」の関係構築である。

このNinjacartへ昨年末インドのeコマース大手のFlipkart(Walmart所有)が出資するとの発表があった事は記憶に新しい。インドはIT人材の宝庫であり、世界的な企業の多くがR&D拠点を設置している。またインド政府やエンジェル投資家、ベンチャーキャピタルなどの支援が多く、スタートアップが挑戦しやすい環境がある。今回の新法案の可決により。より収益性の高い農業の実現に向けて、コールドチェーンのノウハウを持つプライベート企業やAIや機械学習、ブロックチェーン技術、ビッグデータ解析を利用した民間のアグリテックが起爆剤として加わることにより、インドの農業産業がどの様に変革して行くのかは非常に興味深い。

冷蔵機器などを備えない一般的なインドの野菜販売店。新鮮な野菜も少し時間が経つとしなびてしまう=ニューデリーで西尾英之撮影