コラム:小川忠のインドネシア目線

パンデミックが加速させる教育のデジタル化

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小川忠

跡見学園女子大学教授、元国際交流基金ジャカルタ日本文化センター所長

人付きあいを大切にするジャカルタ市民は、さぞかしがっかりしていることだろう。9月10日に予定していた大規模社会的制限(PSBB)の緩和を、ジャカルタ特別州アニス・バスウェダン知事は凍結せざるを得なかった。9月20日時点の状況は、インドネシアの感染者数は24万687人で世界23位、死者数は9448人である。感染者数は2カ月で倍増した。在宅勤務とオンライン授業の励行、公共交通機関の運行制限、レストランの営業制限、地域をまたがる集団礼拝禁止といった異常な状態が続く。

出口の見えない新型コロナ・ウィルス危機は、現代インドネシア社会で進行中の巨大な変化の潮流、すなわち「イスラム化」と「デジタル化」をさらに加速させることになるだろう。

イスラムとパンデミックについてはこれまでの連載で触れたが、デジタル化とパンデミックの関係はどうか。パンデミック以前から、インドネシアはすでにSNS大国である。シンガポールの「We are social」社の報告「デジタル2020 4月統計」によれば、利用者数約25億人と世界で最も人気あるSNSのフェイスブックに関し、インドネシアの利用数は1・3億人でインド、米国に次いで世界3位である。インスタグラム利用者数も世界4位6400万人、リンクトイン利用者数世界8位1500万人、ツィッター世界9位1100万人と、軒並み世界10位以内に入っている。

インドネシア国内のICT利用の現況を見ると、インターネット利用者数は昨年比17%増の1億7500万人(人口比64%)、ソーシャルメディアの頻繁利用者数は昨年比8%増の1億6000万人(人口比59%)となっている。また16歳から64歳までのインターネット利用者のうち、携帯電話利用率は96%、スマートフォン利用率94%、パソコン利用率66%である。

つまりウィルス危機以前から、インターネットはインドネシアの国民の三分の二にとって生活の一部であり、そのインターネット利用者の9割以上がスマホを使って社会とつながっていた。そして今回ふってわいたウィルス危機は、インドネシア社会のさらなるデジタル化をプッシュする要因となっている。この点からEコマースと並んで、注目されている分野が教育であり、そのデジタル化の原動力となっているのがスタートアップ企業である。

今回はウィルス危機における教育のデジタル化の意味を考えてみたい。

スタートアップ出身大臣が旗を振る教育のデジタル化

世界をみるとパンデミックは、ほとんどの国の教育に大きな影響を及ぼしている。パンデミックが教育にもたらしている衝撃について、ユネスコが各国政府から情報収集している。このユネスコ統計によれば、9月19日時点では53カ国において学級閉鎖の措置がとられ、全学習者の50%、8億7540万人の学習者に影響が出ている。3カ月前には104カ国で学級が閉鎖され、影響を受ける学習者は10億人を超えていた。インドネシアでは、9月19日時点で6826万人、3カ月前には7962万人の学習者が影響を受けている。学校閉鎖の可否権限は各州知事に与えられているが、幼稚園から高等教育まで全国53万の学校が閉鎖され、学習者は自習を余儀なくされた。

このような危機的状況において、文教行政担当者ならばICT活用による在宅学習という解決策をすぐに頭に思い浮かべるであろう。インドネシアにおいて、教育分野でウィルス危機対応の陣頭指揮をとっているが、ナディム・マカリム教育文化大臣だ。

彼が大臣に就任したのは、パンデミック発生に先立つ数か月前。ジョコ・ウィドド大統領が、弱冠35歳、政治経験の無い彼を大臣に任命したのは、大抜擢といえるもので、第二次ジョコ政権組閣の目玉人事として話題になった。青年新大臣は、ハーバード大学で経営学修士号(MBA)を取得し、携帯を活用した配車サービスのゴジェク社を立ち上げ急成長させた、スタートアップの旗手というべき人物だ。

ナディム大臣は就任早々、「学の独立(Merdeka Belajar)」という彼のカラーを全面に出した新政策を打ち出す。端的にいえば、それは教育の自由化、規制緩和、民間活力の導入政策である。教育文化省が実施している全国統一卒業試験の改訂、全国統一学力試験の廃止、学区制の制度変更(在住地よりも学力に基づく進学先決定)、授業指導案作成権限の現場教員への委譲といったものだ=写真下

従来からインドネシアでは、教育の質、学習成果の低さが問題視されてきた。OECDが78カ国・地域において実施した学習到達度調査(2018年)において、インドネシアは読解力72位(日本15位)、数学72位(日本6位)、科学70位(日本5位)というお寒い状況にあった。

そこに颯爽と登場したハーバード出の若き教育文化大臣は、「学の独立政策の神髄は教師と生徒の潜在力を国の縛りから解放し、自らの刷新と改良で学習の質を高めることだ。教育の自治とは単に官僚の言いなりにならないということだけではない。自らの頭で考えイノベーションを実行することだ」と打ち上げた。自由化、規制緩和、その先のICTを活用した教育現場での創意工夫によってテコ入れし、教育の質を高めようというのである。以上の通り教育ICTへの投資を重視する姿勢を、ウィルス危機がやってくる前から、ナディム大臣は示していた。

そこにやって来たのが、パンデミックにともなう学校閉鎖という危機的な状況である。当然のように教育ICT化への社会的期待は一挙に高まった。

しかしインドネシアの場合、アメリカ大陸に匹敵する東西距離をもつ広大な列島国家において、通信インフラが未整備の地域もある。ジョコ政権は全土での通信インフラ整備を重点的に取り組んできたが、まだ全土をカバーしている状況ではない。また経済格差も解消されておらず、オンライン学習のためのデバイスを持っていない家庭も存在する。

教育文化省は全国の学習環境を「オンライン学習の環境が整っている状況」「インターネット環境が不充分で教師と生徒の双方向対話が難しい状況」「オンライン環境がまったく整わず教師の家庭訪問が必要な状況」の三つに分類している。ICTを活用したいところだが、拙速にやると国民のあいだに学習機会の不平等を生じさせてしまうというジレンマを教育文化省は抱えている。

そこでナディム大臣が採った策が、「家で学ぼう (Belajar dari Rumah)」プロジェクトだ。ICTのオンライン教育ではなくテレビ放送を使ったオーソドックスな遠隔教育で、インドネシア国営テレビと協力して4月から自宅学習プログラムの全国放送を開始したのである=写真下

その一方で教育文化省は、ICT学習環境が整っている家庭の生徒向けに、「オンライン対面学習プログラム」「教師向けオンラインコース」「デジタル読書」「電子教科書」「携帯教育マルチメディア教材」等の学習メディアを開発し、公開している。

ウィルス危機で追い風が吹くEdTech

ナディム大臣が教育のデジタル化のこれからの担い手として期待を寄せているのが、民間企業、特にEdTechである。EdTechとは、Education(教育)とTechnology(技術)を結びつけた造語で、ICT等の技術を活用して教育に飛躍的な変化を与えるスタートアップ企業や技術を指す。EdTechは教育格差の激しい米国で一つの格差解決策として生まれ、近年世界中で市場規模を拡大させている。代表的な事例といえば、2012年に米国で始まった「MOOC(ムーク)」である。インターネットを使って一流大学の講義を受講でき、修了証も発行されるオンライン学習サービスである。

インドネシアにおいてもEdTechと政府の連携が始まっており、前述の通り教育文化省のウェブサイトには民間企業が開発したオンライン学習サービスの情報も提供されている。世界銀行グループが2020年5月に、インドネシアのEdTechに注目した報告書を公表している。この報告書「インドネシアのEdTech離陸準備完了か」=写真下=を参照しつつ、インドネシアEdTechの概況を見ていきたい。

同報告によれば世界中でEdTechへの投資が急拡大しており、2014年に25億ドルに満たなかったのが、2017年には90億ドルにまで達した。17年時点の資産価値は380億ドルで、1997年からの投資額累計を上回るレベルとなった。主な投資先は米国、中国、インドで、消費者向けサービスを提供する企業41%、企業向けサービス39%、大学向けサービス7%となっている。

インドネシアにおけるEdTechも、世界の趨勢とほぼ平行する形で発展してきた。EdTech企業の設立件数は、2013年15社、14年3社、15年12社、16年6社、17年8社、18年5社と、ほぼ直近7年間に立ち上げられたものである。このEdTech創業ブームは、インドネシアにおけるインターネットの普及とも符合している。

EdTechは、学習者向けには自習用Eラーニング教材、双方向学習プラットフォームを、教師には学習者管理、学習者との双方向対話・指導の手段を、教育機関には事務管理サービスを提供している。特定のサービスに特化するよりも、様々な商品サービスを供給して多様なニーズに対応しようという戦略を採用している企業が多い。

インドネシアという国全体が学歴社会化し、より質の高い教育、より多様な教育へのニーズが高まるなかで、EdTechの市場規模もさらに拡大すると予想される。同時に現時点において成長を阻んでいる課題も見えてきた。供給側、受容側、それぞれに問題がある、と世銀グループ報告は指摘している。

供給サイドの問題として、EdTech側からすると外部からの投資が十分とはいえず、事業拡大のために必要となる資金が不足していることである。これには投資家の目がEdTech以上に急成長しているEコマースに集まり、EdTechへの投資意欲が高まっていないという事情がある。またデジタル・ネットワークのインフラ整備の遅れ、特にジャワ島以外の連結性の悪さが、EdTechの安定的運用を困難にし、運用コストを引き上げていることも課題の一つだ。そして学習者や保護者を満足させる実力をもった優秀な教師の不足という隘路も解決しなければならない。

需要側の問題として世銀グループ報告が真っ先に取り上げているのは、「変わることへの抵抗」である。教育デジタル化に抵抗している最大の当事者は、現場の教員である。インドネシアの公立学校教員の過半数は、これから10年以内に定年を迎える中高齢教員である。彼らのICT運用力の低さとICT導入への抵抗が、EdTechが直面する最大の課題である。

「変わることへの抵抗」は、保護者サイドにもある。中間層が拡大して国民の過半数を超えたとはいえ、教育への投資意欲が旺盛な年間可処分所得1万ドル以上の富裕層、高位中間層は24・5%(ジェトロ統計)で、国民の残り75%は、それ以下の社会階層に属している。こうした社会階層は、無料もしくは廉価でのオンライン授業サービスを望んでいる。インターネット情報はタダで、と強く要望する保護者向けのサービスなので、高額料金を設定することは難しく収益性が低い。ビジネスとして成功するEdTechは多くないのである。

世界銀行グループ報告書は、インドネシアのEdTechは以上のような課題を抱えつつも、ウィルス危機によってこの国のオンライン教育への傾斜は一層強まり、EdTechにとって発展のチャンスとなるであろうと分析している。パンデミックに対する懸念が語られ始めた本年2月頃から主要EdTechのオンライン学習プラットフォームのダウンロードが急増している。

6800万人の学習者が学校で学べないという状況にあって、EdTechが問題解決のために多様なプログラムを提供するその実力を政府は理解し、活用しようとしている。ナディム教育文化大臣は、EdTechとの無料学習ソフトの共同開発や通信インフラ整備に積極的だ。8月末に彼が明らかにした計画では、遠隔学習に必要なデータ通信量として一人あたり月35~50ギガバイトを9月から12月まで配布する予定で、そのために総額9兆ルピア(約640億円)の予算を充てる。

海外留学エリートが創業した東南アジア最大級のEdTech

ところでインドネシアEdTech創立者の40%は、修士号以上の学歴を有し、69%のEdTechは創業者のうちの一人が海外留学経験組である。

ウィルス危機で現在追い風が吹いているEdTechの代表格を挙げておこう。「ルアン・グル(Ruang Guru 先生の部屋)」社である。ルアン・グルは、東南アジアで最大級のオンライン教育プラットフォームを提供し、1500万人の学習者、30万人の教員が登録している。オンライン双方向授業、オンライングループ学習、優秀家庭教師の個人指導、オンライン試験、企業研修等100種類を超える教育サービスを提供する。32の州政府、326の地方自治体も同社のクライアントで、すでにインドネシア教育界に少なからぬ影響を有しているのだが、その設立は2014年で創業6年目のスタートアップだ=写真

 

同社を設立したのは、ベルヴァ・デヴァラ(30)とイマン・ウスマン(28)という2人の青年で、ナディム教育文化大臣同様に絵にかいたような高学歴のスタートアップ創業者である。ベルヴァはハーバードとスタンフォード、イマンはコロンビア大学の大学院留学組だ。ちなみにベルヴァは2019年11月大統領特別スタッフに任命され、ミレニアム世代の大統領ブレーンとして注目された=写真

 

こうした欧米の大学で鍛えられた若きエリートが創造性を発揮して、新しいビジネスモデルを生み出すところに、現代インドネシア社会の旺盛な生命力を感じる。

高学歴はデジタル・リテラシーを高めるのか

インドネシアの将来を担う人材を育て、公正で平等な社会を築く手段として内外から期待が高まる教育のデジタル化であるが、本当の真価が問われるのはこれからだ。

ルアン・グルは企業理念として、公的機関が提供できていない「質の高い教育」を、テクノロジーを通して、インドネシアの「全ての学習者」に、「いつでも」「どこでも」提供することを掲げている。質の高い教育の提供は実現できるとしても、「誰でも」「いつでも」「どこでも」を平等に提供できるかどうか。情報インフラの地域格差があるこの国でどこまで実現できるかは未知数だ。企業理念とは裏腹に、かえって社会格差を拡大させる可能性もある。

またデジタル化を重点政策に位置付ける現在のジョコ政権において、政権とEdTechが密接しすぎると、癒着の懸念が生まれる。大統領特別スタッフに任命されたルアン・グルのベルヴァCEOは、ジョコ政権がウィルス危機で急増する失業者対策として打ち出した失業者向けスキルアップ教育と同社の関係性が問題視され、就任半年足らずで大統領特別スタッフを辞任した。

さらに「教育のデジタル化はインドネシア民主主義を強化するのか」という点について、よく考えなければならない。

これが問うのは、「教育のデジタル化によって、より高い学歴をもつようになった国民は、ICTを駆使して、必要な情報・知識を取得すると同時に情報の正誤を見分ける判断力を獲得する、いわゆるデジタル・リテラシーを身につける」「そうした国民が健全な民主主義を発展させる」という認識だ。

2019年11 月にインドネシア社会科学院のイブヌ・ナジール研究員らがシンガポール東南アジア研究所にて「インドネシアのニセ情報、意図的誤報」と題する気になる分析報告を発表した。大統領選挙戦が始まっていた2018年7~8月、彼らはインドネシア全土9つの州で、各州200人の成人男女にアンケート形式で意識調査を行った。イブヌらは、この時期にインドネシア社会に流れていたニセ情報、意図的誤報の主なものとして、「(現政権によって)インドネシア共産党が復活する」「政府はイスラム指導者を犯罪者扱いしている」を挙げている。

この調査報告によれば、「インドネシア共産党が復活する」と信じていた者の比率は、中卒40%、大卒(学士)42%、大卒(修士・博士)52%と学歴が高くなるほどニセ情報を信じる割合が高くなっていたのである。また「政府はイスラム指導者を犯罪者扱いしている」というデマについても、中卒55%、大卒(学士)45%、大卒(修士・博士)62%という割合で、大学院修了者の方が中卒者よりもデマ情報を信じているという結果が出た。

イブヌらは、高学歴でIT情報へのアクセスが高いほど、ニセ情報に惑わされずデジタル・リテラシーも高いという前提は成立しないと指摘している。高学歴化、ITアクセス能力のスキルアップは、必ずしも民主主義の足腰強化につながるとは限らないのだ。

ウィルス危機を契機に加速する教育のデジタル化は、中長期的にインドネシアの国民統合に少なからぬ影響をもたらすに違いない。それが吉と出るのか、凶と出るのか、注意深く見守っていく必要がある。