コラム:小川忠のインドネシア目線

パンデミックと医者とアジア・ナショナリズム

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小川忠

跡見学園女子大学教授、元国際交流基金ジャカルタ日本文化センター所長

 

 

始まった国家アイデンティティー問い直し

危機に直面した時、人や組織は自らのアイデンティティーを問い直す。これまで蓄積した経験やノウハウが通用せず、先が見通せない危機的な状況に置かれた時、内側から湧き出してくる不安を抑えきれない時、あらためて人は「自分とは何者か」「自分が生きる意味は何か」「自分はなぜここにいるのか」という根源的な問いかけを始める。経営危機に直面する企業の経営トップも同じだ。思慮深い経営者ならば「その企業が存在する意義は何か」、創業の原点に立ち戻って黙考するであろう。

これは国家にも言えるのではないか。新型ウィルス危機に直面する現代世界において、国家アイデンティティーの問いなおしが世界各地で始まっているのではないか。その兆候を感じたのは、インドネシアから送られてきた雑誌「テンポ」を開いた時だった。同誌(5月19日号)は、今から100年前の20世紀初頭、この地を襲ったパンデミック(感染症の世界的流行)に医師たちがいかに立ち向かったか振り返る特集記事を掲載していた。感染拡大が止まらない現在のインドネシアにあって、歴史から教訓を学ぼうという意図があるのだろう。

ふりかえってみると100年前、「インドネシア」という国や「インドネシア国民」を自称する人々は、未だ地上には存在していなかった。「インドネシア共和国」、それを構成する「インドネシア国民」という新たな国民国家の誕生にパンデミックは深く関わっており、感染症と戦った青年医師たちが初期独立運動の旗手となった歴史を、「テンポ」記事は再確認している。

今回は上記テンポ誌他を参照しつつ、新型ウィルス危機によって生じている、インドネシアの国家アイデンティティー問い直しに焦点をあててみたい。

その前に、現時点での同国の新型ウィルス感染状況を概観する。7月28日時点でのインドネシア感染者数は10万2051人、この数カ月間東南アジアで最も感染者数が多かったシンガポールを6月中旬に抜き、同地域最大の感染国となってしまった(東南アジア感染者数2位はフィリピン8万3673人、次いでシンガポール5万1197人)。もっともインドネシアの人口は、フィリピンの2・5倍、シンガポールの45倍あることを考えると、この感染者数はインドネシア政府当局が感染抑制に善戦していることを示すのかもしれない。しかし同国死者数の4838人は、2位フィリピン1947人の倍以上、3位マレーシア124人と比較して飛びぬけて高く、医療体制の脆弱性は明白である。

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新型コロナウイルス感染防止のため臨時休業となった、普段は観光客らでにぎわうジャカルタにある独立記念塔(左奥)=2020年3月23日、武内彩撮影

経済・社会的打撃は深刻だ。先行き、悲観的な見方が拡がっている。アジア開発銀行は6月に発表した本年度の経済成長予測において、パンデミックがインドネシアの経済、とりわけ雇用と一般国民の生活に深刻な影響を及ぼしているとして、同国の成長率予測を4月時点の2・5%からマイナス1%に下方修正した。政府は、失業者に関し2019年の705万人から21年には最悪1270万人まで増えると予測している。この結果は貧困層の拡大を招くこと必然で、最悪シナリオでは貧困層総数は2800万人となり、国民の10人に一人が貧困層という状態に陥る。

ナショナリズムの起源となった医学校

インドネシア・ナショナリズム研究の第一人者であった土屋健治は、その起源を次のように叙述している。

インドネシアのナショナリズムはいつどこで誰とともに始まったのか、という問いは実はいまだ十分に答えられていないと思う。ただ、近代的な意味での誕生ということになれば、それは1908年に、バタヴィアの医師養成学校(STOVIA)の学生たちを中心に結成されたブディ・ウトモから始まる。

東インド医師養成学校(STOVIA)は、現在のインドネシア大学医学部の前身である。オランダ領東インド(現在のインドネシア)において、19世紀の植民地支配者たちは現地社会の福祉や教育を放置してきた。20世紀初頭、そうした植民地政策が見直されて、現地住民の「成長と発展」を促す啓蒙主義的な政策が導入された。「倫理政策」と呼ばれる新政策において、原住民の子弟に対する教育の普及、道路等のインフラ整備、保健衛生状態の向上等に優先順位が高くつけられた。

この「倫理政策」によってSTOVIAが設立されたのだが、植民地政府が「倫理政策」を採用したのは、「進んだ近代文明を未開の原住民社会に伝える」という、上から目線の啓蒙精神のみならず、植民地経営上の必要性を認識していたからでもあった。

そもそも19世紀後半までオランダ植民地当局は、支配地域住民の保健衛生に注意を払おうとはしなかった。19世紀はじめ植民地経営に関わる、オランダの役人・軍人・貿易商にとって、蘭領東インドはマラリア、デング熱、赤痢、腸チフス、コレラ、結核などの風土病、疫病がまん延する世界で最も不健康な土地、「ヨーロッパ人の墓場」と恐れられていた。以下の数字は歴史家ハンス・ポルスの研究に記されたものであるが、本国から植民地に進駐した連隊兵士全員が3年以内に病に斃れた時期もあり、在住西洋人の3分の1が病死するという年もあった。当時の西洋人医師たちは、欧州人植民者たちの死亡率の高さに気をとられた。そして西洋人の死亡率の高さは、冷涼な気候で育った欧米人の体質が熱帯風土に合わないからと考え、いかにして西洋人を現地順応させるかという観点から、植民地政府による医学研究が進められた。ここでは人種的体質が、疫病発生の重要ファクターと認識され、現地住民の健康衛生は考慮されなかったのである。

ペストと戦う青年インドネシア人医師たち

こうした植民地政府の医療認識を変えたのが、19世紀後半パスツールとコッホによる「多くの病気が細菌などの微生物感染が原因」という発見だった。病気の伝染を防ぐには殺菌が重要と認識され、不衛生な環境が疫病を招くことから、社会的には上下水道の整備や食品の衛生的な管理、個人の取るべき行動としては手洗いうがいの励行、調理時の十分な加熱への心がけ、と医師たちは植民地政府に助言した。寄生虫による発病メカニズムも解明されてきた。

人種体質が問題ではなく、衛生環境が問題であるならば、オランダ植民地政府は西洋人のみならず現地住民の衛生環境まで改善する必要がある。そうしないと、現地住民社会の感染症まん延は西洋植民者の感染リスクをも高めるからだ。かくして「倫理政策」において、原住民の保健衛生向上が重点分野として取り上げられたのである。

「倫理政策」によって原住民の教育に力を入れ始めたオランダ植民地政府は、まずジャワの貴族(プリヤイ)子弟にオランダ語を身につけさせ、その上で医療、法律、工学などの専門的教育を施した。この専門教育を施す学校が、バタヴィアの医師養成学校(STOVIA)、行政官養成学校(OSVIA)であり、さらにバンドンの高等工芸学校、ボゴールの薬学・農学専門学校である。STOVIAは1851年開設ジャワ医学校を前身として、1902年に正式に設立された。

20世紀初頭に蘭領東インドに設立されたこれら教育機関の本質は、オランダの植民地支配体制を支えるための現地人中間テクノクラート養成なのであるが、こうした現地人の青年エリートのなかに、新たな国民国家の形成、ナショナリズムの種子がまかれ、やがてそれは独立を求める民族運動として芽を出してゆくこととなる。

前述土屋の言及の通り、インドネシア・ナショナリズムの起源とされるのが、STOVIA内で1908年に結成された団体「ブディ・ウトモ」である。「ブディ・ウトモ」とは、「高貴なる徳」を意味する。

ブディ・ウトモ結成のきっかけを作ったのは、ワヒディン・スディロフソド医師である。ブディ・ウトモの精神を体現するような高潔な人柄であった。医師として植民地体制下の劣悪な状況に置かれている庶民の窮状を見つめてきた彼は教育の重要性を確信し、貧しい子弟のための奨学金を集めるために各地を行脚する旅を続けていた。旅の途中、STOVIAを訪問したワヒディン医師の演説に感銘を受けたストモやグナワン・マングンクスモら学生たちが、教育、産業振興を通じた原住民社会の発展をめざす団体設立という行動に出たのである。

1908年10月にジョクジャカルタで第1回の結成大会が開かれ、彼らは貧困家庭子弟向け奨学制度や初等学校設立などの活動に取り組んだ。その後、この団体は高い理想を掲げる学生から保守的な植民官僚層に指導権が移り、その輝きを失って衰退していくことになる。しかしSTOVIA、ブディ・ウトモで新しい時代の精神に触れた卒業生たちは、その精神を受け継ぎ、植民地社会で格闘を始める。

その一人が、独立の父スカルノにも大きな影響を及ぼした、初期インドネシア民族運動の重要指導者チプト・マングンクスモである。権力におもねらない一言居士として知られた彼は、1905年にSTOVIAを卒業し医療活動に従事する傍ら、「東インド人のための東インド」をスローガンに掲げ、1912年東インド党を結党した。オランダ植民地支配下にある現地諸民族の独立を要求する最初の政党である。

「テンポ」誌(5月19日号)は、1911年東ジャワの都市マランで発生したペスト流行と格闘するチプトの姿を描いている。1910年から39年までジャワ島において数次にわたるペスト流行で、命を落とした人の数は19万人にのぼる。マランの危機では、「ペスト=黒死病」の記憶から感染に怯えて、封鎖された現場で医療活動を行うことを嫌がるオランダ人医師に代わって動員されたのが、チプトらSTOVIA出身の現地人医師だった。1912年に植民地政府はチプトらを交通遮断、隔離したマランに派遣し、医療に従事させた。

彼らは待遇面でもオランダ人医師と比べて不当な扱いを受けた。チプトらはマスクなど感染防止の十分な装備がないまま悪戦苦闘せざるを得なかったという。村の巡回診療でマラリアやデング熱に罹患する医学生もいた。多くの犠牲者が出た村を訪問したチプトが、両親が病死したのか、あばら家に放置されたままの乳飲み子を発見し、その子を養女としたエピソードを、テンポ誌は紹介している。流行がおさまり現地住民から英雄としてあがめられたチプトに対して、オランダ政府は勲章を贈ろうとしたのだが、彼は敢然と拒否し、東インド党での政治活動にエネルギーを傾注することになる。

感染症危機があぶりだした植民地政府の「倫理政策」の偽善性、背後にある人種差別意識が、チプト・マングンクスモに「植民地体制からの脱却、独立」という方向へと向かわしめる。現在の新型ウィルス危機も、各国社会の亀裂、脆弱性を表面化させるが、100年前のジャワ島におけるペスト流行も植民地支配の矛盾を浮き彫りにし、それが新たな変革、インドネシア国家の樹立へとつながっていったのだった。

「スペイン風邪」被害を拡大させた植民地当局の怠慢

現在の新型ウィルス危機と関連でよく言及される100年前の1918年~21年のインフルエンザ・パンデミック、いわゆる「スペイン風邪」は、蘭領東インドでも猛威をふるった。この危機においても、被支配民の健康衛生を軽視する植民地体制の体質が被害を甚大なものとした。

1918年3月欧米諸国で感染が拡大する状況にあって、同年4月にシンガポール駐在オランダ領事は蘭領東インドへの感染拡大を懸念して、バタヴィアの港湾における香港航路船舶の接岸、乗客の上陸をストップするよう警告を発していたのである。しかしオランダにとって大切なビジネスである貿易業務の停滞を懸念して植民地政府は具体的な措置を取らなかった。その結果、欧州、インド、東南アジア、中国、日本、米国までつながる貿易ネットワークの要であった蘭領東インドの主要港湾都市から「スペイン風邪」感染は列島各地にみるみる拡大、大量の感染者が発生することとなった。

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日本降伏2日後にインドネシア共和国独立をマイク前で宣言するスカルノ(中央)
                         =1945年8月、毎日新聞社

「スペイン風邪」の蘭印上陸を伝える初期の記事として、7月17日「スマトラ・ポスト」紙が、東ジャワ・スラバヤで村人、海軍関係者、さらにスラバヤ刑務所内での受刑者感染の発生を報じた。それから感染は東ジャワ、スマトラ島沿岸部、中部ジャワ、バタヴィア、カリマンタンへと拡大していった。植民地政府が対策本部を立ち上げたのは11月になってからである。その時点では、7月の第一波に続いてより大規模な感染第二波が10月からこの地域に襲来していたのだった。後世の研究によれば、1918年から19年にかけて「スペイン風邪」の蘭領東インド犠牲者数は少なくとも150万人以上とされ、426万から437万人に達したという説もある。現在の新型コロナ・ウィルスが貧困層を狙い撃ちしているように、「スペイン風邪」も、近代教育を受けていないために感染対策の知識が乏しく、かつ医療サービスの恩恵が受けられない最下層から多くの犠牲者を出した。当時の医師たちは報酬が得られない原住民患者を診察するのを嫌がり、実入りのいい欧米系あるいは華人系患者を優先したという。

膨大な感染者の出現による医療崩壊状態のなか、植民地政府が頼ったのはSTOVIA出身の現地人医師と学生たちだ。STOVIA最上級生の卒業は繰り上げられ、医学生たちは感染症との戦いの最前線に送り込まれたのだった。

医者と世直し

「スペイン風邪」危機に際し、医療現場を支えた現地人医師たちの活躍。これを植民地当局も認めざるをえず、彼らの社会的発言力は増大した。しかし、後にインドネシア医学界の指導者となったバーダー・ジョハン医師は、往時をふりかえって「インドネシア人医師たちは植民地社会と正面から向き合わねばならなかった。医療現場にあっても、社会一般においてもインドネシア人は(オランダ植民地支配者から)二級市民と見下され、彼らの軽蔑と戦わねばならなかった」と述べている。近代医学を修めた現地人医師は社会的地位を上昇させるにつれて、植民地権力の人種主義的差別を意識するようになっていった。胸中に高まる自信と植民地社会に存在する不平等に対する不満は、民族独立による世直しの希求へと化学反応を遂げていった。

歴史をふりかえってみると、19世紀から20世紀にかけてアジアの民族運動指導者には医師出身の者が多いことに気づく。

中国革命の父、孫文は20代の頃、香港西医書院(香港大学の前身)で西洋医学を学び、マカオで医師として開業していた。医学校で学んだ頃、封建社会が抱える問題を解決するためには革命が必要と考えるようになり、医療から政治へと転身していった。フィリピンの国民的英雄とされるホセ・リサールも同様だ。スペイン植民地体制下のフィリピン、セント・トーマス大学医学部を卒業した彼は、スペイン、ドイツで近代医学と哲学を修め、フィリピン帰国後、医者として診療活動に従事するとともに、フィリピン独立運動に力を入れるようになっていく。そういえば、現代の強烈なアジア民族主義者、マレーシアのマハティール元首相も同国独立前、医者をしながら、政治活動を始めた。

日本の近代化の夜明け、幕末から明治初期の指導層にも医師出身の者は少なくない。日本近代医学の祖、緒方洪庵の適塾で学んだ俊英には、東京大学初代医学綜理・池田謙斎、アドレナリン発見者・高峰譲吉、慶應義塾の創始者・福沢諭吉のような医学者、教育者以外に、志士の橋本左内、日本近代陸軍の創設者大村益次郎、清国駐箚公使として外交で活躍した大鳥圭介など、医学を超えた幅広い分野で日本近代化の礎を築いた人々が含まれている。

彼ら若き医師たちは、西洋の先進近代文明を消化し、それを自分たちが属する非西洋社会に伝える伝道者の役割を担っていた。幕末に西洋近代医学を日本に教授するために長崎にやってきたオランダ軍医ポンペは、「貧富・上下の差別なく医者は患者に向き合わねばならない」という近代医学の医療倫理の神髄を日本人の弟子たちに教えた。西洋近代医学を修めた感受性の鋭敏なアジアの若者たちは、この「誰にも公平な医療を」という近代医療倫理と植民地社会・封建社会の現実とのギャップに呻吟する。そして病気を治すということは、単に医療行為だけで完結する問題ではなく、生活環境・衛生・保険制度・教育等社会体制の改善に関わることと認識する。こうして医師が政治、社会改革運動に踏み出していったのである。

◇  ◇

医療は医療だけに終わらない、というのは今日も同じだ。国際社会の共通目標SDGs「持続可能な発展目標」中の第3目標は、「すべての人に健康と福祉を」である。貧困国における乳幼児死亡の直接原因の40%は、肺炎・マラリア・下痢といった感染症によるものと言われている。その背景にあるのは、乳幼児の栄養不良、親の教育不足、劣悪な衛生環境だ。つまり乳幼児死亡率の高さは貧困と結びついている。2019年にアフガニスタンで凶弾に斃れた中村哲医師が、人生の後半において医者でありながら土木知識を学び、戦乱と旱魃で荒んだ野原に運河を掘り始めたのは、「安全な水の供給が貧困・飢餓・不衛生な環境改善に不可欠。それがこの国に安定と平和をもたらす」という信念からだった。

新型コロナ・ウィルスは途上国のみならず、アメリカのような先進国でも貧困層を直撃し、医療崩壊が起きた現場ではトリアージという命の選択を、医師たちに迫っている。「貧富貴賤に関わらず、国民は皆、法の下に平等であり、同じ義務と権利を有す。」これが国民国家の基本原理である。国際社会の共通目標でもある「一人残さず取り残さない」という医療倫理が踏みにじられる時、その社会体制の統治正統性は失われていく。100年前のパンデミックは、不平等なオランダ植民地社会を揺るがし、インドネシア・ナショナリズムを芽生えさせ、平等な「インドネシア国民」によって構成される「インドネシア共和国」という新しい国民国家を誕生させた。

このインドネシア共和国が今日のパンデミック危機に際して、社会的階層、地域に関係なく公平な医療サービスを提供できないとなると、体制変革を求める声が高まってくるだろう。真っ先に世直しを求める声をあげるのは、医療関係者かも知れない。