コラム:小川忠のインドネシア目線

新型ウイルス危機のイスラム神学解釈

.jpg

小川忠

跡見学園女子大学教授、元国際交流基金ジャカルタ日本文化センター所長

新型コロナウイルスと人類の戦いが続く。敵方ウイルス陣営には相当に狡猾な軍師がいるらしい。各国の政治・経済・社会状況を観察し、その特徴を浮き彫りにして、こちら側が気づかない弱点を突いてくる。シンガポールが、まさに弱点を狙い撃ちされた。元々超管理国家にして、ウイルス封じ込めの優等生と呼ばれていたシンガポールだが、そのアキレス腱は、まばゆい繁栄の影の部分、劣悪な外国人労働者の住環境だった。外国人労働者寮でクラスター感染が起き、爆発的に感染が拡大したのだ。

当初感染者が出ず担当大臣が強気の発言を繰り返して緊迫感に欠けていたインドネシアにおいては、3月中旬から感染者数が拡大し、5月26日現在では2万3165人(シンガポールに次いでアセアン2位)、死者数は1418人(アセアン最多)という状況である。保健・検疫管理体制の不備、中央政府と地方政府の対立の顕在化等の弱点を、新型ウイルスは攻めたてている。

世紀が代わってからはリーマン・ショックもものともせず力強い経済成長を続け、国民の過半数が中間層となったインドネシアだが、今回のウイルス危機がもたらした打撃は大きい。最悪の場合、本年のインドネシア経済はマイナス0・4%の経済成長に転落し、雇用状況が悪化して失業者が500万人以上増え、再び貧困層が拡大して9年前のレベルまで逆もどりする可能性を、財務大臣が国会で発言している。まさに社会の根幹を揺るがす危機にインドネシアも直面している。

前回は、宗教はウイルスとの戦いにおいて足枷なのか、それとも武器なのか、という点を論じたが、今回もこのテーマについて、前号以降の状況も踏まえつつ検討することとしたい。

インドネシアは世界有数の多宗教国家である。たんに様々な宗教が存在するというだけでなく、宗教は、社会において人々の行動を左右する大きな影響力を持っている。とりわけ国民の9割を占めるイスラムの存在感は大きい。今日のインドネシア社会で進行している巨大な変化の一つが、都市部中間層のイスラム意識の活性化であるが、国家的危機の状況に対してインドネシアのイスラムはどう向きあっているのか。今回はインドネシアに限らず、他のイスラム世界の言論までアンテナを拡げて、彼らの議論に耳を傾けてみよう。

(以下のクルアーン日本語訳は日本ムスリム協会発行「日亜対訳注解 聖クルアーン」第5刷によるもの)

イスラム史上かってない事態

イスラムという宗教の歴史は、610年頃アラビア半島でムハンマドが神の啓示を受け、その預言を語り始めたことから始まった。イスラム教徒には信仰の五つの柱とされる義務がある。六つの信仰箇条と合わせて「六信五行」という。「五行」は、①信仰告白、②礼拝(1日5回の礼拝と金曜の集団礼拝)、③喜捨、④断食(断食月の1カ月)、⑤巡礼(一生に一度、定められた期間中のメッカ・カーバ神殿への巡礼)である。

20140321dd1dd1phj016000c
メッカ・カーバ神殿の周囲を歩く世界中から集まった巡礼者たち=2014年2月12日、ザイナブ・アジジ撮影

この「五行」の戒律ゆえに、イスラム教という宗教は日常生活と関わりが強いのである。今回のウイルス危機は、イスラム教徒の暮らしのなかの信仰実践に多大な困難をもたらしている。

たとえばモスク内での感染拡大を防ぐために、モスクでの集団礼拝自粛、自宅で礼拝するよう政府あるいは宗教指導者から求められ、インドネシアでは断食明け大祭のための帰省も制限されている。メッカ巡礼には、「五行」の一つである巡礼期間中の大巡礼(ハッジ)と巡礼期間外に随時行われる小巡礼(ウムラ)の2種類があるのだが、現在サウジアラビア政府はメッカ、メディナへのウムラを停止させており、今年7月に予定されているハッジも取りやめる措置を検討している。

イスラム1400年の歴史において、これまで戦乱によりハッジが行われなかったことはあっても、疫病が理由でハッジが行われなかったことはない。歴史上かつてない事態に、世界のイスラム教徒は直面しているのである。

新型ウイルスをめぐるクルアーン解釈の三つの型

信仰の柱を揺るがす、このような前代未聞の事態を宗教的観点から、どう理解したらよいのか。信仰と日常が密接に結びついているイスラム教徒は、その答えを切実に求めている。そうしたイスラム教徒の問いに対して、イスラム教徒の行動規範を示すのがイスラム法であり、そのイスラム法の法源となるのは、第一に聖典クルアーンである。イスラム教徒にとって、クルアーンはムハンマドに下された神の啓示であり、神の言葉そのものだ。ここから演繹して様々な教えが導きだされるのだが、新型ウイルスをめぐってのクルアーンの捉え方には主に三つの型がある。これは連載前回に書いた、インドネシア・イスラムのウイルス出現に関する三つの反応パターンとも符号する。

まず「クルアーンには森羅万象、世界の始まりから終わりまでの全ての出来事が示されている」と考える人々がいる。今回の新型ウイルスについても、クルアーンのどこかに神の啓示があるに違いなく、それを見つけだそうということとなる。そして彼らは「解釈を排し字句通りにクルアーンを読むべき」という原理主義的解釈を主張する。しかし、「解釈するな」と言いつつ、自らの主張に都合の良い部分のみ挙げて、前後の文脈や背景を無視するという判断が加わっており、原理主義者は「解釈しないという解釈」を行っているともいえる。原理主義的解釈論者は、ウイルス出現を天罰または世界の終末の前兆と見る傾向がある。

第二の型は、クルアーンは神の啓示であるにしても、全世界、全時代のことを具体的事細かに示しているわけではなく暗示なので「今の状況と照らし合わせて、クルアーンを解釈し神の意志を理解しなければならない」とする状況適応型解釈論者である。第二の立場にたつ人々は「人間は不完全な存在で、神のご意思を間違って解釈する可能性があるので、様々な解釈をすり合わせ協議することが必要」と考える。彼らはウイルス天罰論を否定し、ウイルス禍を神が与えた試練ととらえる。

第三の型はクルアーンに書かれていないことは、「人間は理性・知性によって判断する自由を神から与えられており、理性的に判断し、主体的に行動していかねばならない」という欧米のリベラリズムと親和性のある世俗主義的解釈である。このタイプは、新型ウイルスの大流行は単に自然災害とみなし、宗教と社会政治を分けて思考する。

第一の原理主義的解釈と第三の世俗主義的解釈の中間に第二の状況適応的解釈がある。

終末論、天罰論を喧伝するイスラム過激組織

これまでにない状況、事態に直面し、いかに処するべきか迷うイスラム教徒に対して、イスラム法学を修めた専門家は、クルアーンやムハンマド言行録等に拠って解釈を行い、ファトワー(宗教的見解)を発する。

今回の新型ウイルス危機においても世界中で様々なファトワーが発せられているのだが、エジプト政府機関としてファトワーを発する権限をもつ「ダール・アル・イフタ」(宗務裁定庁)が、傘下の調査機関「グローバル・ファトワ・インデックス」情報に基づいて3月16日に発表した報告によれば、コロナウイルスに関してイスラム世界各地で出されているファトワーの40%が公的機関によるものであり、残りの60%はイスラム法の専門家ではない個人や組織が勝手に発したもので、そのなかには「IS」等のイスラム過激組織が含まれているという。

イスラム過激組織のウイルス危機認識は、原理主義的だ。ISは、その機関紙にクルアーンの章句「本当にあなたの主の捕らえ方(懲罰)は強烈である」(85章12節)を掲げ、ウイルスの中国での出現を国内でウイグル人イスラム教徒を弾圧する中国政府に対する天罰であると断じている(「ダール・アル・イフタ」報告3/16)。

ISとつながりのあるインドネシアのイスラム過激組織「東インドネシア・ムジャヒディン」(MIT)の一部は、新型ウイルスを、イスラム国家樹立を阻むインドネシア政府当局との戦いの同盟者・神の軍隊と位置づけ、3月から4月にかけて警官襲撃や警察への情報提供者誘拐・殺人などスラウェシ島ポソでの活動を活発化させている(紛争政治分析研究所報告4/28)。

他方ISやMITの2月~4月の活動は天罰論を唱えつつも案外自制的、という分析もある。「今はメンバーへの感染が起きないよう活動を控えて、アジトでじっとしているべき」と考える慎重派の声も過激組織内部に強いのだ。ウイルスの出現を世界の終末の予兆と捉える彼らが自制の根拠としているのが、クルアーン44章(煙霧章)である。

この章を世界の終末に言及する章と理解し、終末に現れる救世主の到来の前に、世界は40日の日夜のあいだ熱い煙霧(ドハーン)に包まれるという。彼らはロックダウンによる自宅待機を、ドハーン到来の予行演習ととらえ、同章10節「待っていなさい、天が明瞭な煙霧を起こす日まで」、同章16節「われが猛襲する(審判の)日、本当にわれは(厳正に)報復す」といった章句を唱え好機到来まで力を温存すべきと考えている。

ウイルスを天罰と捉えプロパガンダを強化するIS本体、世界の終わりの予行演習として自宅待機するインドネシアのイスラム過激組織シンパのいずれもが、「クルアーンは今日のウイルス出現という事態を予言していた」「世界の終末は近い」「イスラム(善)は無神論者や異教徒(悪)に最終的な勝利をおさめる」という原理主義的なクルアーン解釈をしている。

付言すると、こうしたウイルス天罰論・終末認識・善悪二元論・陰謀論はイスラムに限らず、キリスト教原理主義者やヒンドゥー・ナショナリストなどの最近の言動にも見られ、イスラムだけの現象ではない。不安な社会変動期に現れる社会現象だ。日本の一部メディアやネット論壇でも似たような天罰論・陰謀論が踊っている。

主流派イスラムは現実的なクルアーン解釈

特に強調したいのは、インドネシア、そして世界のイスラム教徒の大半は、上記のような過激組織の原理主義的クルアーン解釈を信じておらず、賛同していないということだ。多くのイスラム教徒は第二の状況適応解釈派であり、一部世俗主義的解釈の立場に立っている。

インドネシアの主流派イスラムの言説を見てみよう。インドネシア最大のイスラム組織であり、伝統的な村のイスラム教徒たちが尊敬するイスラム指導者(キアイ)が結集する「ナフダトゥル・ウラマー(NU)」は、3月中旬から、感染地域におけるモスクの金曜礼拝取りやめ、イスラム聖者廟の閉鎖、断食明け大祭の里帰り自粛等の決定を下し、社会的距離を保ち、礼拝は自宅で行うよう、信者に呼びかけている。

集団礼拝をやめるのは神への絶対的な信頼を説く教え「タワックル」に反しているのではないかという疑問に対して、NU執行理事会議長のアフィフディン・ムハジル師は、同組織のオンライン・メディア「NUオンライン」(3月25日付け)で、「たしかに神はタワックルを説いている」として、以下のクルアーン章句を引用している。

言ってやるがいい。「アッラーが、わたしたちに定められる(運命の)外には、何もわたしたちにふりかからない。かれは、わたしたちの守護者であられる。信者たちはアッラーを信頼しなければならない」(クルアーン9章51節)

その上で同師は、「神は同時に洞察力を働かし警戒を怠ってはならないとも説いている」と諭し、以下のクルアーン章句を示す。

あなたがたがどこにても、たとえ堅固な高楼にいても、死は必ずやってくる。(クルアーン4章78節)

またアッラーの道のために(あなたがたの授けられたものを)施しなさい。だが、自分の手で自らを破滅に陥れてはならない。また善いことをしなさい。本当にアッラーは、善行を行う者を愛される。(クルアーン2章195節)

アフィフディン・ムハジル師はタワックルと感染への警戒は、信仰の両輪であり、同時に両方の道を追求していくべきであると説く。そして、専門家の忠告に従うよう求める。「イスラム教義については、ウラマー(イスラム指導者)が権威者であり、特にイスラム法判断においてはそうである。他方、保健に関する権威者は医師・医療専門家である。医療問題に関しては、ウラマーは医師たちの助言抜きに、宗教的見解を出すことはできない」としてNUの決定は、医学をふまえた神学的判断と主張している。インドネシア・イスラム主流派NUは、ウイルス危機に対して、イスラム教義を現代科学(医学)と両立させようとする解釈する現実主義的な対応をとっている。

NUオンライン
ナフダトゥル・ウラマー(NU)のアフィフディン・ムハジル師=NUオンラインより

新型ウイルスへのジハードとイスラム博愛主義

インドネシアにおいてNUに次いで二番目に大きなイスラム組織がムハマディヤだ。エジプトのイスラム近代改革運動の影響を受けて1912年に設立された。NUが農村イスラム教徒の支持を集める保守的・伝統的団体であるのに対して、こちらは都市部の知識層が支持基盤となっている。ムハマディヤは、ウイルス危機への対応を「新型ウイルスへのジハード」と称している。イスラム教義と現代医学を両立させる解釈をとる点ではNUと同じだが、より積極果敢に危機解決に行動しようという姿勢が目立つ。

ウイルス感染者が拡大していた3月19日に、ムハマディヤ本部は金曜礼拝の説教(「フトバ」)テキストを公開した。このフトバでは、まず以下のクルアーン章句が示されている。

われは、恐れや飢え、とともに財産や生命、(あなたがたの労苦の)果実の損失で、必ずあなたがたを試みる。だが耐え忍ぶ者には吉報を伝えなさい。(2章155節)

フトバはこの章句の解釈として、全ての人間にとって避けがたき災害は、神が人間に与えた試練であり、信仰の強さが試される時であると語る。さらに人間は神の導きを求めつつ、あらゆる力をふり絞って、忍耐強くその試練に立ち向かい乗り越えていかねばならないと説く。そして、今回のウイルス危機に際して、イスラム教徒がなすべきは三点あるとして、①神に対する信仰を深めよ、②社会的距離を保つことを実践し、金曜礼拝や宗教学習会などのモスクでの活動を抑制せよ、③支援を求める人々を救え、と述べ、締めくくりに以下のクルアーン章句を掲げている。

むしろ正義と篤信のために助け合って、信仰を深めなさい。罪と恨みのために助け合ってはならない。(5章2節)

3月24日ムハマディヤはファトワーを発し、「パンデミックとの戦いは宗教的義務であり、ジハードと同じ神への奉仕である」とするともに、「ウイルス禍は神の試練であって天罰ではない」とイスラム過激組織の認識を明確に否定した。そしてクルアーン5章32節「人の命を救う者は、全人類の命を救ったのと同じである」を説き、自発的な無償救援活動を推奨している。巨大組織ムハマディヤは宗教的理念に基づいてインドネシア全土に学校、病院、社会福祉施設を有しているが、「ウイルスとの戦いはジハード」という本部指令に基づいて、ムハマディヤが有する12の病院は新型ウイルス高度医療施設としてフル稼働し、全国3万か所の支部、ボランティア事務所は感染予防キャンペーンを展開している。

イスラム寛容派の指導者ムストファ・ビスリ師が、礼拝前の身体の清めを完璧なものとせよという公衆衛生の理にかなった指示を出していることを紹介したが、全世界のイスラム教徒のあいだで教義と組み合わせて感染対策を強化しようという言説が強まっている。そこで引用されるのは「あなたがたがもし大汚の時は、全身の沐浴をしなさい。」「アッラーは困難を、あなたがたに課すことを望まれない。ただし、あなたがたを清めることを望み、またあなたがたへの恩恵を果たされる」(5章6節)、「またあなたの衣を清潔に保ちなさい。不浄を避けなさい。」(74章4~5節)等、神は身を清める者を愛すると説くクルアーンの章句である。

◇  ◇  ◇

以上見てきた通り、インドネシア最大のイスラム組織ナフダトゥル・ウラマー、第二の組織ムハマディヤは、現在のパンデミック状況について、現代医学と両立する状況適応型のイスラム教義解釈の立場をとる。そしてイスラム過激組織が唱道する天罰論・陰謀論を否定し、イスラム神学の立場から現在の状況を神が与えた試練として、集団礼拝の自粛、社会公益活動、無償ボランティア活動の強化によって試練を乗り越えていこうとしている。

外から見ているとISの天罰論などセンセーショナルな教義解釈に目を奪われがちになり、「イスラムは狂信的ゆえにウイルスとの戦いの足枷」という見方に傾きがちだが、大方のイスラム解釈は、不安と闘う人々を勇気付け、社会資本として政府が十分に提供できていない公益サービスを人々に届け、ウイルス封じ込めの一翼を担う機能を果たしている点を正当に評価しておきたい。

聖典クルアーンは、「本当にアッラーは公正と善行、そして近親に対する贈与を命じ」(16章90節)、「両親に孝行しなさい」(17章23節)と説く。本来イスラム教は社会共同体を重んじ、年長者を敬い、強い人間的絆を大切にする宗教である。そういう信仰を持つ人々にとって、神の前に皆でひれふし祈る時間、友人たちとの団らん、という子どもの時から暮らしのなかにあった大切な日常を奪われていることのつらさを、イスラム教徒でない人々はどれくらい理解できているだろうか。