あの日から9年 バンコク・高木香奈

20160712dd1dd1phj731000c2011年の冬、名古屋で事件や事故の取材を担当していた。2月22日のニュージーランド(NZ)・クライストチャーチ地震で被災した人の中に、名古屋市出身の鈴木陽子さん(当時31歳)がいるかもしれないという連絡を会社から受け、実家の両親の自宅に向かったが、既にNZに出発した後だった。父喜久男さんと母千鶴子さんに初めて会えたのは3月初旬、身元確認に時間がかかるため一時帰国したときだった。報道各社に囲まれながら、娘が国際看護師を目指して留学したことや両親の見た被災地の様子を話してくれた。

身元確認の連絡を受け、両親が再びNZに向かったのは東日本大震災の直後だった。その年の春、私は何度か東北に取材で出張し、その後どうしているのか気になり、千鶴子さんの勤務先の病院に会いに行った。

両親はあの日から毎年、追悼式に合わせてNZを訪問し、地震をきっかけに知り合った現地の人と交流を深めてきた。地震では日本人28人が亡くなったが、3回忌を終えたころから現地を訪れる遺族は減り、喜久男さんが毎年、旅行記をしたためて知人の日本人遺族に送るようになった。転勤して名古屋を離れた私の元にも届き、毎年の状況を教えてもらった。

地震の被害は、陽子さんが被災した語学学校の入っていた市中心部のカンタベリーテレビビルの倒壊による死者が6割以上を占めた。王立委員会は12年にまとめた報告書で、ビルの設計や施工に重大な欠陥があると指摘した。「人災」は明らかに見えたが、現地警察は刑事責任を問うには現行法では根拠が不十分だとして、17年に立件を断念した。

地震後に就任した市長は、今年の追悼式翌日の2月23日に遺族と負傷者に向けて初めて市の責任を認め、正式に謝罪した。3月になり、喜久男さんが現地の謝罪会見の様子をメールで知らせてくれた。会場のホールで、市長は舞台を背に並べられた椅子に座った参加者に、末席から話をしたという。会見を聞いて「9年間の胸のつかえが溶けて流れ去ったというのか、思わず目頭が熱くなった」と記していた。(2020年4月 アジア総局)