日中を結んだバイオリン 北京・河津啓介

河津啓介 本社員

昨年9月に77歳で亡くなり、日中友好に尽力した中国を代表するバイオリニスト、盛中国氏への旭日小綬章の伝達式が4月8日、北京の日本大使館であった。生前に叙勲の手続きは進んでいたが、本人が知る前に急逝。横井裕駐中国大使から勲章を受け取ったピアニストの妻、瀬田裕子さんは、最愛の夫に報告するように壇上で天を見上げた。

「夫は大きな名前を背負い、その通りに生きた」(瀬田さん)。印象的な名前の由来に、日本が関わっていた。盛氏は日中戦争のただ中の1941年、内陸部の重慶で生まれた。旧日本軍による「重慶大爆撃」と呼ばれる空襲は、38年から約5年間で200回を超え、1万人以上が死亡したとされる。防空壕の中で、盛氏の父親は「侵略を乗り越え、祖国が隆盛してほしい」と願い、息子の名を決めたという。

音楽と祖国への愛情は人一倍強かった。バイオリンの「神童」と呼ばれ、60年代にモスクワに留学。恩師らに旧ソ連を拠点に「世界で活躍するべきだ」と引き留められたが、「私の留学は農民の血と汗のおかげだから」との思いから帰国を決めた。

ところが、祖国で待っていたのは厳しい運命だった。文化大革命によって農村に強制移住させられ、過酷な労働に従事した。それでも毎晩、宿舎を抜け出し、農地でバイオリンを奏でた。瀬田さんは「厳しい時代を経験しても、社会や個人への恨み言を口にしなかった。さまざまな経験で磨かれた自らの魂を、音楽に昇華できるまれな演奏家でした」と盛氏の人間性を語った。

公私の伴侶だった瀬田さんとのおしどり夫婦ぶりは中国でも知られていた。盛氏は80年代から海外でも活躍。86年の初来日で、約20歳年下の瀬田さんの才能を認めて伴奏者に抜てき。2人は世界各地で公演し、94年に結婚。日本公演は60回を超え、阪神大震災後には神戸市の仮設住宅で慰問演奏し、東北大震災直後も福建省でチャリティー公演をした。

「音楽は時を超え、国境を超え、瞬時に人の心を繋げる力がある」と伝達式であいさつした瀬田さん=写真。その言葉を体現した夫の魂と共に、日中を結ぶ演奏活動を続ける決意を新たにしていた。(中国総局 2019年5月)

特派員の目中国