ミャンマーの日本大使館で公使参事官を務めてきた丸山市郎氏(64)が大使に昇格し、3月29日付で着任した。ミャンマーの事実上の国家元首であるアウンサンスーチー氏(国家顧問兼外相)とは旧知で、携帯電話でいつでも連絡を取り合える間柄だ。外務省特別専門職(ノンキャリア)のミャンマー・プロパーとして、旧軍事政権時代から国軍や民主化活動家、政財界に幅広い人脈のネットワークを構築し、「余人をもって代えがたい」と、定年を延長した形で「異例の抜擢」となった。2011年の民政移管以降、現地で日本企業の進出を支援してきた丸山氏に、この国でビジネスを成功させる「勘所」などを聞いた。

【聞き手・毎日アジアビジネス研究所・春日孝之】

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日本の対ミャンマー外交、その最前線を担う

 

――スーチー氏と緊密な関係を築いてきました。

丸山大使  ミャンマーが軍事政権だった時代、日本はこの国に対して独自の外交を進めていた。軍事政権ともスーチー氏とも、良好な関係を維持するというものだ。1988年のクーデターで軍事政権がスタートした翌8 9年、民主化運動を率いていたスーチー氏は軍事政権により自宅軟禁処分となった。それから4年後の93年、私は2回目のミャンマー勤務が始まり、その2年後の95年にスーチー氏が「釈放」される。

「釈放」の直前、私のところに軍事政権の幹部から連絡があり、「本日、スーチー氏を釈放する」と内々に伝えてきた。軍事政権が各国大使館の中で事前通告したのは日本だけだった。私はすぐにスーチー氏と連絡を取り、そして初めて、彼女と会った。

読売代表・安倍スー・チー会談3

2016年11月2日、訪日し会談を前に安倍晋三首相(左)と握手するアウンサンスーチー氏=東京・元赤坂の迎賓館で

当時、欧米諸国は軍事政権と対決し、経済制裁の発動(97年)に向けて動き出していた。このため、現地の欧米大使館はスーチー氏のところに通い詰めることになるが、一方で中国やアセアンを含めたアジア諸国は軍

事政権との関係を緊密にしようと、スーチー氏とは一切コンタクトを取らなかった。国際社会のミャンマー外交は両極に分かれ、その中で日本は独自のスタンスを貫くことになる。

日本は軍事政権に対し、ODA(政府開発援助)は供与しなかったが、人道支援はしていた。その人道支援に関して、私はその後スーチー氏と会うたびに「すべての援助を止めてほしい」と要請される。ほぼ2週間に1回の頻度でスーチー氏から呼び出されるか、こちらから説明に伺っていた。

軍政期の ODA、今やスーチー氏からも感謝

――どんな感じで呼び出されたのですか。

丸山大使 電話がかかってきて、「明日でも明後日でもいいので来てほしい」と。顔を出すと「日本政府がこんな ODA を出すと聞いた。私は反対だ」と結構厳しい口調で言われる。「日本だけが支援している」とお叱りを受けた。私は繰り返し、こう説明した。

「日本政府は、軍事政権を支持するとか支持しないということで支援するのではない。ミャンマーの民主化に向けた動きを側面支援し、ミャンマーの人たちが少しでも豊かになっていくような形を考えている。だから、軍事政権だからまったく付き合わないというのはおかしい。軍事政権と付き合ってこそ、軍事政権にモノも言える特化した支援ではないか」

今になってスーチー氏を含めたNLD(国民民主連盟)の幹部たちが口をそろえて言うのは、「日本だけがミャ ンマー人の外国留学とか人材育成について、時間をかけて取り組んできてくれた。これには本当に感謝している」。何度も言われた。

軍政時代、スーチー氏にしてみれば政権を倒すために、あらゆる圧力をかけたかった。だから日本がやっていることが良いとか悪いとかではなくて、軍事政権(の正当性を)を認め、支えることにつながりかねない援助を一切やめろ、というのが彼女の立場だった。

当時からのスーチー氏の「日本批判」をもって「スーチー氏は日本が嫌いなのでは」という報道が散見されるが、私はスーチー氏との20年を超える付き合いの中で感じるのは、むしろ日本が大好きだということだ。いい思い出を持っているようだ。

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スーチー氏とのエピソードを語る丸山氏=藤井太郎撮影

「スーチー氏にはマロングラッセを」

 

――彼女との印象的なエピソードはありますか。

丸山大使 最近では二つある。一つは、2016年に初めて誕生した NLD 政権の何人もの閣僚から同じようなことを言われた。スーチー氏が閣僚たちにこう指示したという。「この国のために本当に重要だというプロジェクトを考えるのであれば、まずは日本と相談しなさい。日本はそれについてきちんと対応してくれます」。

もう一つは、スーチー氏が2016年11月に訪日して天皇皇后両陛下に接見し、宿泊先のホテルに戻った時だった。スーチー氏が同行していた私たちに、ほぼ直角に腰を曲げてお辞儀をし、「ありがとうございました」と、とても流ちょうな日本語で謝意を示したのが印象的だった。そうした振る舞いを見ても、日本が好きなのだと感じる。

――スーチー氏は漢字も読めますね。丸山大使          私は知らない。

――2015年の総選挙前の記者会見で、私はスーチー氏に質問をしたことがあります。それまで、政治情勢やラカイン(ロヒンギャ)問題など堅苦しい話題ばかりに質問が集中し、彼女の表情は次第に険しくなっていた。そんな時に「ミャンマーの著名な占星術師たちが『スーチー大統領が誕生する』と占っている。主要なメディアでも話題になっているが、どう思うか」と尋ねた。私はメモを見ながら英語で話していたが、スーチー氏はよく理解できなかったようで、「あなた、そのメモを見せて下さい」と言った。彼女はそのメモを一目見て、会見が始まって初めて微笑み、「占星術は信じていないが、占星術師には感謝する」旨の発言をしてくれた。メモには質問の要点を漢字交じりの汚い日本語で走り書きしていた。私は「漢字を読めるんだ」と思いました。

丸山大使 私は試したことがないので、分からない(笑い)。軍事政権時代にスーチー氏との雑談で、京都大学での彼女の留学生活や日本のお菓子について話題になった。その時に「マロングラッセ」の話が出て、彼女は

「とてもおいしくて、大好きだ」と言った。実際にマロングラッセを届けると、いつもとても喜んでくれる。その表情を見るたび「本当に、本当に好きなんだな」と思う。

スーチー氏に行政手腕はないのか? と問う意味

 

――スーチー氏と共有した時間はすごく長い。

丸山大使 1962年に軍事クーデターでネウィン政権が誕生し、88年の民主化運動を経て(事実上の第2 次)軍事政権がスタートし、2011年のテインセイン政権発足で民政に移管した。その50年間のいわゆる軍事政権のあいだ、ミャンマーの人たちが一番に求めていたのは「民主化」であり、スーチー氏をリーダーとする政権の登場だった。それだけの時間を経て、ようやく実現した民主政権である。

民主政権になったからといって、すぐに何事もうまくいくわけがない。実際にいろんな問題や困難にぶつかりながらやってきてきた。そうした中でスーチー氏に「行政手腕があるとかないとか」と問うのは重要ではない。むしろ意味がない。今の政権が問題や困難にぶち当たったら、私たちも一緒に悩んで、寄り添って助けてあげたい。政権に対し「ダメだなぁ。どうなっているんだ」と文句を言うのではなくて、寄り添って出来る限りの支援をしていくのが一番重要だと思う。

ラカイン問題では NLD 政権に寄り添おう

 

――ラカイン問題ではスーチー氏に対し、国際社会、とりわけ欧米からの風当たりが強い。「ロヒンギャ(ベンガル系イスラム教徒)の人権を軽視するスーチー氏は変節した」といった批判記事も目立ちます。

丸山大使 非常に残念だと思っている。ミャンマーに少しでも関わったことがある人なら、この問題がミャンマーの人たちの複雑な感情も絡んで、一筋縄にはいかないことがすぐに分かるはずだ。特効薬はない。つまり、誰も解決策を持っていないにも関わらず、スーチー氏に対し「何もしていない」と責め立てるのは非常に酷だ。むしろ私たちが、何が、どんな方法が改善に向かうきっかけになり得るのか、一緒に悩みつつ考えるというのが一番大切だと思う。ラカイン問題が原因でスーチー氏が過去に受賞したいくつかの賞をはく奪されるというのは、すごく残念だ。

アジア欧州会議(ASEM)開幕前の記念撮影で言葉を交わす アウンサンスーチー国家顧問兼外相(左)と欧州連合(EU)のモゲリーニ外務・安全保障政策上級代表(右)=ネピドーで20 17年11月20日午前、西脇真一撮影

――同じノーベル平和賞受賞者からも「スーチー批判」が出ています。

丸山大使  河野外相は今年1月にミャンマーを訪れた際、日本の同行記者のぶら下がり取材でこんな話をした。

「仏教徒とイスラム教徒の両方のコミュニティーの融和が図られていくような支援を考え、実行したい」。ある記者から「具体的に」の質問か飛んだ。外相は「それは、ミャンマー政府が解決に向けて取り組んでいる努力に対して、私たちが寄り添って一緒に支援していくことだ」と述べた。ラカイン問題に対する日本の立場はこの発言に尽きる。

――スーチー氏はラカイン問題であれだけ非難されて、どんな心境でしょう。

丸山大使 この問題の難しい点はいくつかあるが、その一つは、ミャンマー人のほぼすべて、99%の国民は政府関係者を含めて、ラカインに住むベンガル系イスラム教徒に対して、凄まじいほどの反感を抱いているという事実だ。もう一つは、通常の人権問題であれば、国際社会の声と国内の一般国民の声は同じ方向を向くはずなのに、ラカイン問題に関しては、国内外でその方向性が一つになるどころか、逆を向いていることだ。対応する側としては、すごくやりにくい。

――「人道」とか「人権」で非難されると、反論は難しいです。

丸山大使 今後ミャンマー政府はもちろんだが、私たちも東京のいろんな関係者、NGO などと相談しながら対処の方法を考えたい。基本的にはバングラに避難した人たちを一日も早くこちらに戻れるような環境を作っていくことが決定的に重要だ。そのための食糧支援を含めた人道支援はしっかりとやる。ただ、注目すべきは、ラカイン州がミャンマーで最も貧しい地域の一つだということがある。

ラカイン州の北部マウンドーに行くと、緑豊かで川も海もあって、とても豊かな地域だ。そこに基礎的なインフラ、生活道路とか電気とかを支援し、将来に向けて経済発展のきっかけをつくるというのが、ラカイン問題を解決に向かわせる環境づくりになる。日本が役に立てることがあれば、関係者の人たちと相談して実行したい。

ミャンマー政権の課題、それは予見性のなさ

 

――さて、ミャンマー政府の当面の課題は何ですか。どうすれば解決できますか。

丸山大使 注目したいのは、新投資法(2016年制定)や新会社法(2017年12月制定)ができて、新会社法は今年8月から施行されると聞く。ただ、その条文を見ただけでは、どういったビジネス・投資が認可されるのか、されないのか、必ずしも明確ではない。従って、ミャンマー政府に実際に聞いて、手続きを進めてみないと、どういう条件下でなら投資できるのかよく分からない。このことが象徴するように、(ビジネス環境を巡り)予見性が非常に乏しいことが問題だ。

日本企業は投資に際し、相当なコストと決断を迫られるが、申請してみないとオーケーになるかどうかわからないというのでは、問題が大き過ぎる。現実問題として、ミャンマー政府がなかなか投資環境を整備する体制にならないということだ。私たちからミャンマー政府に相談し、改善していくお手伝いをすることが重要だと思う。これが日本ミャンマー共同イニシアティブ(2013年3月発足)の発想だ。

――スーチー政権の政策決定はトップダウンなのか、ボトムアップなのか、あるいは両方の併用ですか。

丸山大使  ボトムアップだと思う。下から順番に上げていく。最終的にスーチー氏が決断するというよりも、例えば投資・ODA 案件であれば、閣僚で構成する経済委員会で議論し、そこで了解されれば閣議に上げ、案件によっては議会に諮って承認を取って、という手続きを経てやっている。

――一連の「民主的な手続き」で時間がかかっている。

丸山大使  手続きを進めていくうえでいろんな意見が出るだろうし、そうすると再検討することにもなる。そういうのに時間がかかっているという印象がある。

石炭火力問題は……

 

――少し各論に入りたい。経済発展に向けて電源開発は待ったなしの政策課題ですが、その選択肢として注目の「石炭火力」の是非についてはどんな状況ですか。

丸山大使  ミャンマーでは電力がまだまだ不足している。それを補うには天然ガスを利用する手もあるし、これまで利用してきた水力により重点を置く方法もある。天然ガスが十分に入手できないというのであれば、今検討されている LNG(液化天然ガス)の導入もある。再生可能エネルギーだってあり得る。そうした中で最良の組み合わせをどう考えるのか、というのは一義的にミャンマー政府が判断することだ。

その中で石炭火力はどうなのか。これはいろんな経緯もあり、一般国民の多くは環境問題などの観点から石炭火力には根強い反発と不安を抱いている。私たちが「石炭火力をやるべきだ」と勧めるような話ではなく、ミャンマー人が判断すべき問題だ。

――その中でスーチー氏の判断が決め手になる。

丸山大使 たぶんスーチー氏が石炭火力を「やります」「やりません」という上からの判断はしない。下からいろんな意見を聞いて、こういう理由でやらない、こういう理由でやる、という案として出て、経済委員会での議論を経て関係者みんなが「いいですよ」ということになれば、それで進めていく。トップダウンで最終判断することはないと思う。

――合議制だと、政策決定が遅々として決まらない可能性が大きい。

丸山大使 今は、電力相が「早く電力を」と LNG を活用した電源開発、発電事業を進める方針で取り組んでいる。ミャンマーはこれまで LNG を輸入して発電することはなかったので、石炭火力の件はさて置き、まずはLNG をどうやって進めていくかだと思う。これは ODA というより民間企業の案件になる。日本企業が強い関心を持つなら全力で支援する。

ハ ンタワディ新空港問題は……

 

――ハンタワディ新国際空港は「凍結」状態に陥りました。

丸山大使 ハンタワディ空港の建設については、ミャンマー政府が引き続き「重要だ」と言っているが、空港だけでなく、空港周辺のインフラを含めて非常に規模の大きいプロジェクトなので、それをどういうふうにやっていくのか、私たちもミャンマー政府とよく相談したい。新空港の需要を含めた将来性、コストや資金調達の方法といった面をじっくり考えながらやっていくことだと思う。

サプライ・チェーン構築で支援

 

――スーチー政権になり、経済的には国内で停滞感が漂っています。政府に中長期での国家経済戦略が欠如しているとの指摘があります。

丸山大使 NLD 政権が発足したのは2016年3月末だ。ようやく2年は経ったが、あれもこれもと望んでも仕方がない。スーチー氏は、この国の経済発展を考える時、「運輸」や「電力」が重要だと強調している。ミャンマー全体の開発を考える時、象徴的にいろんな問題を抱えているのが最大都市のヤンゴンなので、「まずはヤンゴンの開発を進めていくことが重要だ」と言っている。

全くその通りだ。この国の経済発展に向けて「サプライ・チェーン」をいかに整備していくかが重要で、運輸、鉄道、道路、内陸水運、港湾、さらに通関や輸出の手続きが迅速化するよう、日本としては「その全てを支援し、そうしたものに沿った ODA を進めていく」という方針だ。それは2017年11月のフィリピンでの東アジアサミットで、安倍首相がスーチー氏と会談した際に伝えており、すでにミャンマー側と協議してプロジェクトのリストもできた。今後はいかに実行に移すかだ。具体性を持って日本が支援していく。

インフラを含めてそうした分野に投資したいと考えている日本企業と官が一体になって進めていくことがミャンマーでは不可欠で、ミャンマー政府の中長期的な経済計画といっても、むしろこういう考え方でどうですかと、こちらから伝えながら協議して進めていく。それが、結果として中長期的な計画を形作っていくと思う。

対中国ビジネス戦略の「秘策」

 

――ミャンマーでは中国の存在感が大きい。ビジネス的には日本企業は中国企業と競合する部分もある。中国の存在をどう見ていますか。

丸山大使 ミャンマーが中国にとって非常に重要な国であることは、両国が2000キロメートル以上の国境を接していることでも明白だ。一方のミャンマーにとっても、中国は好むと好まざるとにかかわらず、ずっと付き合っていかないといけない国だ。「不可分」であるという両国の関係について、私たちはまず認識しておく必要がある。

中国はミャンマーに積極果敢に進出しているが、援助だけでなく、民間投資も随分と多い。中国企業はスピード感があり、価格的にも競争力がある。日本企業がミャンマーで先頭を切って走れるか、という意味で中国は手ごわい。ただ、私たちは中国や中国の企業と「区別化」することで十分に強みを発揮できると信じている。つまり、ミャンマーの経済発展のために日本は何ができるのかという視点で動くという姿勢だ。日本の儲けのためにミャンマーに ODA を供与し、日本企業が応札し、ということではなく、まずミャンマーの発展を考える。それがひいては日本とミャンマーの経済関係の深化につながる。これが本当の意味でのウィン・ウィンの関係につながるはずだ。

――私たちは(中国とは)違う。人格者としてミャンマーと向き合えと。丸山大使       はいはい(笑い)。

――ただ、中国企業のビジネス手法に通底するのは賄賂です。アジアでの外国企業のビジネスをめぐり、ワイロを抜きに語るのは難しい面もある。「良い賄賂」と「悪い賄賂」を区別して動く必要がある、との指摘もあります。

丸山大使 私はミャンマーで賄賂がまったく皆無だとは思わないし、いろんなところで多分、あるのだろうと思う。しかし、特に民政移管以降のテインセイン政権、スーチー政権と続く中で、直接いろんな現場に関わりながら、日本企業がミャンマー政府からそういうお金を直接あるいは間接に求められた、ほのめかされた、という話は聞いたことがない。

今のミャンマーの政権が目指しているのは、賄賂をいかに排除していくかということだ。日本企業がビジネスを進めていく時に「ある程度は目をつぶって」というのは、ミャンマーが目指している方向とは全く違う。

「私は日本企業の投資・進出を支援します」

 

――民政移管以降、市場としてのミャンマーについて、日本企業のあいだでは「バスに乗り遅れるな」とまで言われ、熱気があったが、今もその言葉は有効ですか。

丸山大使 2012年、13年ごろは、日本企業のものすごい熱気を感じたが、それはある程度一巡した。私が今思うのは、ミャンマーに対し日本企業はまだまだ熱い視線を持っているのは事実だが、実際の投資に際しては、別の国と比較検討しているようだ。東南アジアの中でミャンマーは、投資先として果たして条件が整っているのか。投資先にはベトナムもカンボジアもラオスもある。バングラデシュもあるかもしれない。そういう国と比較をしながらミャンマーはどうなのか、と冷静に判断していると思う。

――公使参事官時代から丸山大使のもとには多くの日本企業関係者が足を運んできました。

丸山大使 一番(要望が)多いのはミャンマー政府関係者との「つなぎ」だ。民間企業の方はミャンマーの閣僚とはなかなかすぐにアポがとれない。この国では、物事は大臣の意向で決まることが多々ある。だから該当の案件を担当している省庁の高官や大臣の考えを知りたい、という要望がある。私が知っていれば情報を共有する形で伝えるし、場合によっては私や大使館で大臣のアポ取りを肩代わりし、一緒に大臣のところを訪問し、直接企業から事業について説明してもらうこともある。

もう一つは、先に触れた「予見性がない」という点に関連した相談が結構ある。各種法律の運用がどうなっているか、ということで、投資委員会の事務局を紹介したり、一緒に事務局に行って話を聞くこともある。

――ミャンマーの日本大使館は日本企業の投資・進出支援を積極的に進めているとの印象があります。

丸山大使  私の任地は他にワシントンしかないので比較しようがないが、それが日本政府の方針だと理解している。日本企業への全面的な支援は大使館の最大の職務の一つだと、個人的にも強く認識している。ミャンマーの健全で持続的な経済発展のためには、ODA だけでは無理だ。日本企業の投資がどうしても不可欠で、そのために必要なら、困ったことがあれば、私たちは全面的に支援する。

――日本企業にとっては、にミャンマー・ビジネスにかかわる「知りたい情報」が、日本大使館にかなり集中している状況もあります。

丸山大使 そんなことない。私がどんな長くミャンマーにいても、ビジネスに関しては、どう判断していくのか、どういう目で見ていくのか、そこは分からない。常に日本企業の方と接触しながら、投資対象としてミャンマーをどう見ているのか、むしろ教えてもらって、勉強して、ミャンマー側と相談してみる、という作業が必要だ。ミャンマー側とそういう話ができるのは、確かに日本大使館が一番できるので、そのへんをミャンマー側とやる、ということだろう。

日本企業へのアドバイス

 

――ミャンマーへの日本企業の入り方として、アドバイスはありますか。

丸山大使 現地でどれだけ良いパートナー(企業)を見つけられるかが、一番の決め手になる。見つけられれば、投資の7割方はうまくいく。ミャンマーに長く事務所を置いている大手企業であれば、それなりのツテを持っているが、そうでないところはなかなか難しい。そうした時、私のところに来られる日本企業の方々には「ミャンマー商工会議所の幹部にアポを取って相談したらどうですか」と勧めている。商工会議所はいろんな企業を傘下に抱えているので、そこからつながりができる。

もう一つは、ミャンマーの財閥企業、特に軍事政権時代に米国の制裁対象になったような企業を訪問したらどうかとアドバイスしている。制裁下の厳しいビジネス環境を生き残り、今がある企業だ。そこと組むかどうかは別にしても、話をするだけで意義がある。ミャンマーでビジネスをするに際し、どんな壁や障害があるか、いろいろ思い当たるところが出てくる。別のところを紹介してくれることもある。有用なヒントが見つかるかもしれない。

ミャンマーでは外国企業に対しさまざまな制限があり、不動産も所有できない。ミャンマー人の名義なら所有できるので、安易に一部のミャンマー人を信用して、その人の名義で購入したら全部取られてしまった、といったことが過去には少なからずあった。そうしたことを踏まえて、ミャンマーでしっかり活動しているトップ企業の人たちと遠慮なく会って、相談することが重要だと思う。

――どう入って行けばいいか、多くは躊躇するのではないですか。

丸山大使  私から紹介することもできるし、電話やメールをして会いに行ってもいい。ビジネスマンなら、それなりに勘所があるだろう。

スーチー政権のキーパーソンたち

 

――スーチー政権の特質について発足当初は「スーチー専制」のような報道もありましたが、実際に強力な指導者であることは間違いない。そんな彼女に対し、モノが言えて、次世代の政治を担えるようなキーパーソンは誰だと思いますか。

丸山大使 スーチー政権が重要視している問題は、大別して二つ。経済発展と和平プロセスだ。そこに最近はラカイン問題が出てきた。スーチー氏はそれぞれの課題を司司(つかさつかさ)で任せていくやり方だ。経済ならチョーウィン計画・財務省がいるが、その下で実質的に汗をかいているのはセアウン副大臣。スーチー氏のやり方は、委員会をつくって集団指導でやっていくということなので、誰かが強力な指導力を発揮する、という感じではない。

和平プロセスであれば、チョーティンスエ国家顧問府相を中心に、スーチー氏の主治医のティンミューウィン医師などに任せている。ロヒンギャ問題ならバングラとの関係も関わってくるので、外務省、社会福祉・救済復興省にかなり任せている。

――ボトムアップですか。

丸山大使 はい。そのことは日本には「強み」になると思う。和平プロセスであれば日本政府代表をしている笹川陽平・日本財団(公益財団法人)会長を中心に相当に強力に活動している。2018年2月、ミャンマー政府と、少数民族武装組織の新モン州党(NMSP)とラフ民主同盟(LDU)の間で停戦合意に達したのも、笹川会長が国軍のミンアウンフライン最高司令官と相談しながら動かした話だ。日本は経済から和平プロセス、ラカイン問題とあらゆる分野にかかわっているので、いろんな人と接触していける。その意味で日本の強みが発揮されると思う。

「タイ・プラスワン」も念頭に

 

――今後のミャンマーで日本企業にとって有望なセクターは。

丸山大使 ティラワ経済特区を中心に発展を考えていくべきだ。どの業種が、どの分野が、というよりも「ティラワ」をどう活用するか。日本企業がミャンマーへの投資を考えるのであれば、ぜひそこを考えてほしい。

先に、運輸セクターのサプライ・チェーンが重要だと述べたが、その一つが「東西回廊」の整備だ。今はアジア開発銀行が道路を修復し、日本政府が途中の橋を作り替えている。コンテナ輸送が将来的に可能になれば「タイ・プラスワン」(タイに生産拠点を残したまま人件費がかかる労働集約的な工程を周辺国に出す)も現実味を帯びる。タイの部品工場がティラワにも進出し、東西回廊を通ってタイに部品を「送り戻す」ことも考えられる。

ミャンマー経済のネックは地場産業が成長していないことだ。軍事政権下で長く制裁が続いたので、地場産業が育っていない。日本など外国企業がミャンマーで製造業を興しても、部品を現地調達できる可能性は限りなく低い。あらゆる原材料を海外から持ち込む必要がある。ミャンマーの将来的な経済発展を考えれば、地場企業の成長は不可欠だ。ティラワに進出している企業に対し、いかに地場調達を増やせるお手伝いができるか、これは、地場企業を紹介したり、ミャンマーの商工会議所や政府と連携してやってくことになる。

「ビルマ語を習得しろ」 それは無理だろう

 

――ところで、なぜミャンマーと関りを持つようになったのですか。

丸山大使  私が外務省に入ったのは1978年。外務省のシステムでは、入省した翌年に語学研修に出される。私は「ビルマ語をやれ」と言われた。

――指示されたのですか。

丸山大使 当時は第一から第六までの希望語学を書くことになっていた。入省した当時に第六に何を書いていたのか全然覚えてなくて、その後「ビルマ語をやれ」と言われた時に「第六に書いてあるだろう」と指摘された。私は「考えさせてほしい」と言ったものの、結局は受け入れ、東京・神田の古本屋を回ってビルマ語の本を探した。全然見つからなくて、隅の方にほこりをかぶった薄っぺらなビルマ語の本をようやく見つけて、その(変な) 文字を見て愕然とした。「この言語の習得は無理だ」と。次に本屋で地図帳を探した。それが始まり。当時ミャンマーを担当していたのは南東アジア第2課で、研修生として1年間勤務したあと、ビルマに語学研修で赴任した。

――語学研修は2年間ですね。

丸山大使 1979年から81年までの2年間、職務に全くつかずにミャンマー語の勉強をした。当時はビルマ社会主義の時代で、鎖国をしていたから、忘れ去られたような国だった。当時、日本で出版されていた本のタイトルは「誰も知らなかったビルマ」とか「誰も書かなかったビルマ」といったもの。誰も訪ねて来ない国だった。ヤンゴン外国語学院(現・ヤンゴン外国語大学)で外国の留学生は私一人で、文学部の教授が一対一で講義をしてくれた。

そもそも「ありがとうございます」しか言えない程度の語学力だった。最初の日に教授がミャンマー語の新聞を持ってきて「読め」と言う。まったく意味不明だったので、教授は愕然として「今日はこれで終わり」。翌日、教授は幼稚園用の「教科書」を持って来ていた。「これがゾウ、これがライオン」というのから始まった。

いつも一対一の授業で寂しい限りだった。同期入省の友人たちはそれぞれの国で、それなりの大学生活を送っている。同期からの手紙でその様子を知る。「それに比べて私は……」と。鎖国政策をしていたミャンマーで、

私は外交官として大使館員の身分を持っていたので、ミャンマー人との接触は厳しく制限された。ミャンマー人は基本的に外国人と接してはいけないので、私は誰とも接することができない。毎日、一対一の講義を二時間、これはとんでもないことになったなと。

――それまでにヤンゴンに来られた日本人外交官もいたのでは。

丸山大使  一応、先輩の話は聞いていた。そんな語学研修になると(笑い)。

――当時のミャンマーの様子は。

丸山大使  外国の品物は一切、手に入らない。すべて密輸で入ってくる。外国人が普通に通えるようなレベルのレストランなど皆無だった。最初の1年間はホテル住まい。(安ホテルとして知られる)現在の「ホテル G」。旧タマダ・ホテルだ。2階に食堂があり、三食をここで食べた。朝はお決まりメニューで、目玉焼きかぐじゃぐじゃ(スクランブル)の卵と、かじると歯が折れそうになるトースト、それにボロボロに欠けたコーヒーカップに注がれたどす黒い色のインスタントコーヒー。昼も夜も、いつも汚いメニューを持ってくるが、書かれているのは「チキン」「ビーフ」「フィッシュ」の三種のカレーだけ。「毎日毎日、メニュー持ってくるなよ」という心境だった(笑い)。次の1年間は、私はすでに結婚していたので家内を呼んで、一軒家を借りて住んだ。

「南北問題」に関心、そして外交官に

 

――そもそも外交官を志した理由は。

丸山大使 1970年代はベトナム戦争が終結(1975年)に向かい、日本企業が東南アジアに次々と経済進出し、ODA が盛んになっていく時代だった。それと同時並行して「南北問題」と呼ばれた先進国と途上国の格差がいろいろと言われた時代でもあった。タイやインドネシアでは反日運動が起きたりした。そんな時代状況の中で、アジアの途上国に関係する仕事に就きたと思い、外務省の試験を受けた。

――これまでにミャンマーは通算で何回、何年になりますか。

丸山大使 これまでに21年間だ。大使としての赴任で5回目になる。最初の赴任が語学研修の79年で、2 年間の研修を経てそのまま大使館勤務が4年半あったので併せて6年半。いったん日本に戻り、88年の民主化運動を経た89年の軍事政権が発足した直後から南東アジア第1課でミャンマーを担当した。

――ミャンマー関係者の間では、日本のミャンマー外交で「丸山さんは余人をもって代えがたい」と定評ですが、外務省的には「抜擢」です。

丸山大使 外務省だけでなく、民間企業や国会議員やその他にも多くの人たちがミャンマーと関わり、今の両国関係に至っている。私はその中でたまたま、節目々々で関わることができた。軍事政権との付き合いも、それと対峙したスーチー氏との付き合いも長かった。民政に移管しテインセイン政権ができて政治や経済が激変する。時に現地にいて、スーチー氏の政権が誕生する時も現地にいて、ミャンマー情勢をフォローすることができた。いろんなタイミング、流れの中で、今回のような人事になったと思っている。

旧軍事政権をどう評価すべきか

 

――丸山大使は、軍事政権時代も政権幹部に幅広い人的ネットワークを築いていましたが、その軍政をどう評価していますか。少数民族武装勢力と内戦を抱える中、民主化勢力への弾圧はやむを得なかった、との見方もあります。

丸山大使 当時は、スーチー氏をはじめ NLD の多くのメンバーや学生活動家が長い間投獄され、亡くなった人もいた。そうした人権侵害があったことは事実であり、武装勢力との戦闘があったから、という理由で「仕方がない」と考えることはできない。

1989年に東西冷戦が終結してミャンマーで民主化運動が起こり、それをつぶす形で軍事政権が登場し、人権侵害が起きる。冷戦崩壊を機に人権問題はもはや「内政問題」ではなく「外交問題」の範疇に入った。そういう世界的な時代の流れを見誤ったのが軍事政権だったと思う。

今、当時の軍事政権の幹部の人たちと話をすると、彼らも彼らなりに当時は自分たちの役割を果たした、という思いを語る。当時は国際社会から「民主化運動弾圧」を激しく批判されて、外国に行くとミャンマーのパスポートを持っているだけで肩身の狭い思いをした。東南アジアの他の国を訪れてもすごく経済発展しているので、自分の国がいかに遅れているかを痛感し、いつか民主化というか国際社会から批判されない国、経済発展を成し遂げた国にと思っていたのだろう。そういう思いがあったからこそ、2011年の民政移管につながり、あれだけの大胆な改革につながった。

スーチー政権と国軍の距離感

 

――ミャンマーに関しては昔も今も国軍の存在を度外視しては語れません。今後の国軍のありようをどう見ますか。

丸山大使  スーチー氏と国軍最高司令官の関係がうまくいっていない、というトーンの報道が時折流れるが、私が思うのは、軍事政権時代にあれだれ対立してきた両者であり、すぐに手を握り合って、ということにはならない。しかし、お互いに自重して付き合おうとしている。すべての分野で順風満帆というわけにはいかないが、少なくとも表面上、関係を壊さずにきている、そういう努力していると思う。日本大使館としてはミャンマーとうまく付き合っていくうえで、両者の関係をウオッチしていくことは重要だし、両者の関係が順調に進むように、そういうことも十分念頭に置いた対応をしたい。

――最後に、日本にとってのミャンマーの重要性をどう見ているか。

丸山大使 ミャンマーで走っている車の9割が日本車で、日本が先の戦争で大変な迷惑をかけた経緯があるにもかかわらず、戦前・戦中・戦後と今に至るまで、一貫して政府同士だけではなく、さまざまなレベルで一般の国民がグラスルーツでいろんな関係を作って来た。とっても親しい国で、こんなに良い関係を維持してきた国は世界でもないと思う。

そんな国が「民主化」や「経済発展」に向け飛び立とうとしている大事な時だ。政治的にも経済的にも重要な時期を迎えているのであれば、その時こそ日本は各国に先んじて、日の丸を掲げてミャンマーの国づくりを全力で支援していく。そのことが日本とミャンマーの関係をより深めていくことになる。それは、日本と東南アジアの関係とか、もっと広い意味で国際社会の中でも非常に大きなプラスになるし、推進力になる。日本が先頭に立ってこの国を支援していくことの意義は測り知れない。

――その中で日本企業も大きなメリットを受けます。日本企業をどうサポートしていきますか。

丸山大使 繰り返しになるが、ミャンマーの経済発展のためには基礎的なインフラの整備、道路であれ電力であれ、港とかが必要不可欠なので、それは当然 ODA でやっていく。しかし、健全な力強い持続的な経済発展を目指すうえで、民間の投資も必要不可欠だ。日本企業が製造業はもちろん、さまざまな分野に投資をし、ビジネスを進めることが、日本の ODA とあいまってミャンマーに大きく貢献すると思う。

従って、日本の企業がそういう気持ちで投資するのであれば、私としては全力で支援する。今まで外国投資が軍事政権でもなかなか進んでこなかったという理由の一つは、法律面で投資環境が整っていないこともあった。日本の各企業と密に話し合いをし、何が障害なのか直接に話を聞いて、これらをミャンマー政府に投げたりしながら投資環境の整備をしていくことが一番だ。具体的な作業を少しずつ進めたい。

――忙しい日々になりそうですが、仕事が趣味なのでは。

丸山大使 いや、違う(笑い)。ミャンマーでは週末のゴルフ。日本ではしないが、これが楽しみといえば楽しみだ。

【聞いてひと言】

外務省本省での1時間半に及んだインタビューは、居酒屋談議のように本音丸出し、というわけにはいかない。しかし、丸山大使の人となりが少しでも伝われば、それこそが日本企業がミャンマーで成功する「勘所」の一つになるのではないか、との思いでインタビューに臨んだ。

丸山大使の話で印象的だったことの一つは、日本企業は中国企業と「区別化すべき」という点だった。中国企業も今や「そこそこ」の技術力を持ち、なおかつ価格は破格。しかもミャンマー政府関係者への賄賂攻勢は常套手段であり、これでは日本企業は太刀打ちできない。日本製の「性能」や「品質」や「アフターケア」をいくら懇切丁寧に説明しても、そうした点が評価されて「ならば」と受注につながるほど、アジアでのビジネスは甘くない。

次回、私は「ギフトとワイロの境界 ミャンマー編」と題した記事を配信するだが、反汚職委員会のアウンチー委員長のインタビューなど各方面への取材を基に、ワイロの実態と対処法をお届けする。

その中で、一部指摘しようと考えていたのが、いみじくも丸山大使が言及した「区別化」だった。札束をいくら積み上げても(実際のワイロ受け渡しは銀行への口座振り込みがほとんどだが)、時として、心を込めた一箱の「マロングラッセ」が相手の琴線に触れることがある。「スーチー氏にはマロングラッセを」といった小さな情報収集の積み重ねも、ビジネスインテリジェンスの一端ではないかと、私は考えている。(春日)
<丸山大使の略歴>

1953年9月25日、宮城県生まれ

1978年3月    中央大学経済学部国際経済学科卒業

4月    外務省入省

1993年6月    在ミャンマー日本大使館 二等書記官

1994年4月    同  一等書記官

1996年4月    特別専門職

1997年9月    在米国日本大使館  一等書記官

2000年8月    大臣官房

9月    京都市職員  総務局国際化推進室担当課長

2002年6月    外務事務官  在ミャンマー日本大使館 参事官

2006年5月    アジア大洋州局南西アジア課地域調整官兼

アジア大洋州局南東アジア第一課

8月    総合外交政策局総務課外交政策調整官

2008年11月  大臣官房広報文化交流部文化交流課人物交流室長

2010年8月    総合外交政策局安全保障政策課海上安全保障政策室長

2011年7月    在ミャンマー日本大使館 参事官

2018年3月    駐ミャンマー特命全権大使