シリーズ 米国のアジア人脈⑲

新型コロナに奔走したマーク・グリーン米国際開発庁長官 超党派の信頼得た人道支援家

毎日新聞論説委員・及川正也

 新型コロナウイルスは東南アジア諸国も襲った。ミャンマーも例外ではない。3月下旬から相次いで感染者が確認され、今後、爆発的な感染拡大につながらないか懸念が強まっている。こうした中で、コロナ対策に奔走したのが、元下院議員で人道問題に精通したマーク・グリーン米国際開発庁(USAID)だ。米国の「ソフトパワー」を世界に広め、超党派の信頼を得た。4月に退任する予定で、惜しむ声が広がる。

■ミャンマー襲う感染症危機

ミャンマーが新型コロナウイルスの最初の感染者を発表したのは、3月23日だった。保健・スポーツ省の発表によると、20~30歳代の男性で、一人は3月22日に英国から、もう一人は3月13日に米国からそれぞれ帰国したという。その後に発熱の症状が出るなどして感染が判明し、2人とも病院に入院した。その後もオーストラリアや米英からの帰国者が感染していることがわかり、増え続けている。

感染者判明を受けミャンマー政府は、国内では感染者の居住地区の一時閉鎖などを実施している。また、外国からの入国も厳しい対応をとっている。3月25日から空路での入国の際、
非感染証明書提出などの規制を開始し、同29日にはすべての外国人へのビザ(査証)発給を停止すると発表した。それまでも、中国や韓国など感染が広がっている国や地域を訪問した人の入国を禁止していたが、規制を大幅に強めた。

ミャンマーの新型コロナウイルスへの対応については「楽観的だった」との批判もある。「震源地」となり、8万人以上が感染した中国と国境を接し、3月中旬の時点で隣国のタイやインドでは100人を超える感染者が確認され、バングラデシュでも感染者が出ていた。国境を接した国々にこれだけの感染者を出しながら、頻繁な人の行き来があるミャンマーだけが「例外」なことに懸念が高まっていた。

アウンサンスーチー国家顧問兼外相は「確定例は一つもない」と強調し、ミャンマー政府も国民の「ライフスタイルと食事」が感染を阻止しているという科学的根拠のない説明をしていたことも、不安を募らせた。国境をミャンマーは東南アジアの最貧国の一つで、感染症に弱く、医療体制も十分ではないからだ。むしろ、新型コロナウイルスによる呼吸器疾患の影響を軽視しているのではないかとの疑念も生じていた。

確認された感染者は、3月28日時点で8人にとどまるが、タイなどに出稼ぎに行っていた労働者が大勢帰国しており、感染拡大のリスクが増大しているという見方がある。感染は東南アジア諸国連合(ASEAN)10カ国全体に広がっており、すでに潜在的な感染者が大量に国内に流入しているおそれがあるからだ。もし、感染が大規模に拡大すれば、ミャンマーの現在の医療体制では対応しきれない。

ミャンマーの医療投資は、東南アジアで一人当たりの支出が最低レベルで、ほとんどの州で世界保健機関(WHO)が推奨する1000人あたり1人という医師の最低数を下回っている。現地からの報道では、ウイルス検査を施設が一つしかなく、検査キットも少ない。緊急の検査施設を設置し始めたが、まだ300人強しか検査できていないという。

とりわけ、懸念されるのが、イスラム教徒ロヒンギャなどの少数派の居住・避難地域だ。多くが隣国バングラデシュに逃れているとはいえ、感染が確認されれば国内外問わず燎原の火のごとく広がる危険性があると指摘されている。ミャンマーでは2015年の総選挙で勝利したスーチー氏率いる国民民主連盟(NLD)が医療システム整備を公約にしたが、施策は進んでいない。国民には不安が募るばかりだ。

■米国の人道支援をけん引

こうした状況で、精力的な支援を開始したのが、米国の非軍事の海外援助機関であるUSAIDだ。3月27日には世界の途上国向けに新型コロナウイルスに対する緊急人道・医療援助として約2億7400万ドル(約293億円)の拠出を発表した。パンデミック(世界的な流行)への対応に困難な64カ国が対象となり、国連難民機関(UNHCR)を通じて人道的危機に直面する難民地域にも支援する。

ミャンマーも対象で、米国務省とUSAIDの発表では、約380万ドルが医療支援、水と衛生の供給、新型コロナウイルスの管理や監視などに支出される。米国政府はこの20年間で、ミャンマーに対して1億7600万ドル以上の医療支援と、13億ドル以上の米国を中心とする長期的な投資を実施している。今回の支援は、マスクなど検査や治療に必要な医療機器や疫学的な助言や技術サポートが中心となる。

.jpgその支援の旗振り役となったのが、マーク・グリーン長官(59)=写真=だ。グリーン氏は支援に関連して、「世界中のコミュニティーが破壊的な呼吸疾患のパンデミックの制御に取り組んでいる」と指摘したうえで、「このパンデミックは、人間の健康に重大な影響を与える脅威となっており、これに対応することは米国の国益に資するものだ」と述べ、国連機関を通じてできる限りの支援を総動員する方針を表明した。

グリーン氏は2017年8月にUSAID長官に就任した。1999年から4期にわたって下院議員(共和党、ウィスコンシン州選出)を務めた後、2007年にブッシュ子大統領によって駐タンザニア大使に指名され、オバマ政権が発足した2009年1月まで務めた。帰国後は世界で民主主義と人類の自由を推進する独立系の非営利組織の会長を務め、後にUSAID長官に転身していた。

グリーン氏はアフリカを中心とする開発途上国の支援に長く取り組んできた。投資を通じたビジネスの成長で貧困を削減するため、企業のリーダーを取り込んだ非営利組織を運営し、400の非政府組織や有識者、企業などが参加するビジネスネットワーク組織の上級ディレクターも務めた。下院議員当時は歴史的なエイズプログラムの策定を支援し、共和党の下院幹事長補佐として采配を振るった。

グリーン氏はウィスコンシン大学ロースクールで法学士号を取得し、ウィスコンシン大学オークレア校で学士号を取得。2012年にジョージタウン大学看護看護学部から名誉科学博士号を授与された。タンザニア米大使当時には米国最大規模の開発プログラムを主導し、その功績から2014年にタンザニアのキクウェテ大統領から特別感謝状を贈られている。

グリーン氏がUSAID長官としてとりわけ重視したのが、ミャンマー問題だ。2018年5月にはミャンマーを訪問し、ロヒンギャ問題が深刻化しているラカイン州を視察した。USAIDによると、コミュニティーの代表らとも会談し、困窮する生活や不十分な教育、食糧と医療の不足などの実情を聞き、民主主義と人権保護など国際的な原則や信条が損われている実態にも触れたという。

訪問を踏まえ、米政府として、地域社会の生活改善に向けた人道支援の強化に加え、コミュニティー間の信頼関係の構築や、人道的アクセスとメディアアクセスの重要性も確認し、政策の立案に反映する方針を決めた。昨年11月には、カチン州を含む北部地域で、農業支援を通じた包括的な経済成長を支援することを決めた。USAIDが同州で農業支援を実施するのは初めてで、グリーン氏のイニシアチブによる。

.jpgミャンマーを重視しつつも全体に目配せするグリーン氏を支えたのが、USAIDでミャンマーを専門とするテレサ・マッギー担当官(ミッション・ディレクター)=写真=だ。2016年に就任したマッギー氏はミャンマーに関する重要なプログラムを監督する立場にある。民主主義移行を推進し、経済的機会を拡大し、脆弱なコミュニティーの健全性と回復力を向上させ、国の和解を促進し、国際協力を促進する任務という。

マッギー氏は、新型コロナウイルス対策で今年3月にミャンマーを訪問し、同6日にネピドーで開催された会議で、医療機器などを引き渡した。マッギー氏は「医療機器は、米国とミャンマーの人々に友情の精神を与える。ミャンマーの医療従事者とリスクのある人々を支援できることを誇りに思う」と語った。マッギー氏は南スーダン、アンゴラ、モザンビークなどを担当し、人道プログラムを専門に手掛けてきた。

■辞任めぐり憶測飛び交う

こうした中、ワシントンで話題になっているのがグリーン氏の退任問題だ。新型コロナ問題の渦中の3月16日、グリーン氏は声明を発表し、4月に民間部門に転出すると発表した。USAIDによると、以前からの計画というが、「嫌気がさしたのか」との憶測もある。トランプ米大統領は2017年の就任後、海外支援予算の削除を繰り返し表明し、国務省やUSAIDの現場と対立してきた経緯があるからだ。

グリーン氏は辞任にあたり、「海外支援の目的は、その必要性をいずれ終わらせることだ。USAIDの仕事は、国家安全保障や経済成長のために投資に対する見返りを米国民に提供するもので、この寛大さはわれわれがDNAとして持っているものだ」と述べた。ポンペオ国務長官も「グリーン氏は、世界中の自然災害や公衆衛生上の緊急事態に対応することで、アメリカのリーダーシップと心を示してきた」と称賛した。

野党・民主党内には「トランプ政権は海外開発や人道支援を『慈善事業』と誤ってみなしている」(メネンデス上院外交委員会筆頭理事)という批判がある。グリーン氏は共和党だが、民主党からの評価も高い。民主党のオバマ前大統領は2010年、米議会が設置した海外人道支援の独立系機関「ミレニアム・チャレンジ・コーポレーション」理事会メンバーにグリーン氏を指名している。

今回の辞任について、メネンデス上院議員は声明を発表し、グリーン氏の功績をたたえたうえで、「予算削減しようとしたトランプ政権に直面しながら、国家安全保障を前進させるプログラムと資金を支持するグリーン氏のコミットメントを心から感謝する。彼は実直かつ透明性をもって活動し、遺産をつくった」と述べ、グリーン氏を擁護した。

グリーン氏が辞任声明で、任期中に対応した数多くの自然災害や感染症を振り返って具体的に言及したのが、ロヒンギャ対策だった。新型コロナの感染拡大で、脆弱なミャンマー経済は甚大な影響を受けるだろう。工場の閉鎖はすでに雇用の喪失につながり、民間の雇用主も労働者も懸念を抱えている。貧困はさらに深刻になり、衛生状態が悪く、栄養失調に苦しむ難民キャンプでひとたび感染が発生すれば、急激な拡大はまぬがれない。学校や大学の閉鎖は教育の遅れに拍車がかかる。こうした事態を少しでも緩和する国際社会の協力が欠かせない。

おいかわ・まさや

1988年毎日新聞社に入社。水戸支局を経て、92年政治部。激動の日本政界を20年余り追い続けた。2005年からワシントン特派員として米政界や外交を取材。13年北米総局長。16年4月から論説委員