シリーズ「アジアの新興企業・財閥・官僚組織」は1回目でベトナムの新興企業・ビングループを紹介した。2回目は中国のマクロ経済と産業政策の司令塔である国務院国家発展改革委員会を取り上げる。同委員会における江沢民時代の朱鎔基元首相の役割、習近平主席の経済ブレーンである劉鶴副首相の関わりなどに焦点をあてた。【毎日アジアビジネス研究所長・清宮克良】

トップは“福建省人脈”

3月記者会見

中国の全国人民代表大会(全人代)が3月5日に開催され、李克強首相が今年の経済成長率を6・5%~6・0%と低い数値目標にとどめる政府活動報告を行った。国家発展改革委員会の何立峰主任(閣僚級)は6日の経済政策に関する記者会見=写真上 、国家発展改革委員会ホームページから=で、国内経済はいくつかの困難に直面しているとしたうえで「安定した健全で持続可能な発展を維持する傾向にある」と述べた。何氏は最後に「政府活動報告に定められた任務を実行し、民間企業と民間経済の発展をさらに促進し、国有企業と外資系企業とともに中国経済の壮大な発展パワー形成する自信と決意を持っている」と締めくくった。

何 主任中国の最高行政機関である国務院で、国家発展改革委員会は「官庁中の官庁」といわれる特別な存在だ。全人代では首相報告とともに経済報告を行うことが慣例になっている。主任の何立峰氏=写真、国家発展改革委員会ホームページから=は、福建省の厦門(アモイ)大学で財政・金融を専攻し修士課程を修了。その後、1984年から厦門市など福建省で行政キャリアを積み重ねた。2009年に天津市に転じ、14年から国家発展改革委員会副主任となり、18年に同主任に就いた。

ちょうど習近平氏が1985年に廈門市副市長に任命されて以降、25年にわたって福建省で勤務し2000年に福建省省長に就任。何氏が習氏の福建省人脈につながり、習氏の側近として習指導部の意向をくんだ行政手腕を発揮することは想像に難くない。

国家発展改革委員会はどのように誕生し、どういう歩みをしてきたのだろうか。

その前身は1952年に発足した国家計画委員会に遡る。社会主義の計画経済を立案し、物資動員計画を指揮監督する組織である。しかし、当初の目的は鄧小平氏の進めた改革・開放路線の影響で変遷することになる。アジア経済研究所の田中修・新領域研究センター上席主任調査研究員は「朱鎔基氏が組織を変容させた」と指摘する。

日本の戦後復興を例にして見ると、経済安定本部が計画経済・統制を進め、経済復興を遂げると任務を終えて縮小し、やがて物価調整をする経済審議庁に改称し、最後は経済企画庁と組織は縮小した。日本の歩みに沿って考えれば、計画経済・統制を指揮する国家計画委員会も、改革・開放が進めば縮小する方向にあるはずだ。ところが、中国共産党主体の政権運営をする中国では強力な権限を保持し続けた。国家発展改革委員会主任クラスは経済担当副首相の候補者といわれる。一方で財政部の任務は予算策定に限定されている。このため、国家発展改革委員会は日本でいえば経済企画庁というよりかつて「官庁中の官庁」として君臨した旧大蔵省(現財務省・金融庁)に権限の強力さでは類似している。

朱鎔基氏が組織を変容

ŽéèOŠî@’†‘@Žñ‘Š@—ˆ“ú@ŽR—œƒŠƒjƒAŽÀŒ±üŽ‹Ž@@‰E‚ÍŽé˜JˆÀ•vl@m‹LŽÒ‚̖ځn清華大学卒業の秀才だった朱鎔基氏=写真は2000年に首相として訪日した際、山梨リニア実験センターを見学した朱氏、式守克史撮影=は新設まもない国家計画委員会に所属したが、毛沢東氏の大躍進政策を批判したことで「右派」のレッテルを貼られ左遷された。朱氏は復帰したが、中期計画を策定する国家計画委員会には迎えられず、年度計画を担当する別組織の国家経済委員会に1979年に入り、副主任になった。その後、朱氏は上海市に転出し、同市長、同党委書記と重責を担い、浦東新区開発に乗り出した。

田中氏によると、朱氏は徹底して国家計画委員会の権限縮小に動いたという。まず、国家計画委員会を国家発展計画委員会と名称を変更し、その権限を縮小した。他方で、鄧小平氏の掲げる改革・開放を推進するため、その産業政策を取り仕切る国家経済貿易委員会を立ち上げ、権限を拡充していった。98年から2003年の江沢民指導部の首相時代、世界貿易機構(WTO)に加盟したほか、国有企業改革にも熱心に取り組んだ。朱鎔基氏の退任後、国家発展計画委員会は国家経済貿易委員会を吸収合併して今日の国家発展改革委員会となり、再びその権限は強大化した。その余りの権限の大きさに批判が集まり、2008年に一部が工業情報省に分離され、今日に至っている。

しかし、朱鎔基氏の首相退任後、左派保守派の巻き返しもあり、民間企業より国有企業の優遇策がとられるなど改革・開放の旗印である国有企業改革は一進一退が繰り広げられた。2008年のリーマンショックで胡錦濤指導部が国有企業を通して財政出動したこともあり、中国経済の底流には「国進民退」の流れが見え隠れする。

米中摩擦が根幹政策に影響も

劉鶴ここに来て対米貿易交渉をはじめ経済政策の表舞台に出てきた劉鶴副首相=写真、中国中央人民政府のホームページから=は国家発展改革委員会と関わりの深い人物である。北京101中学在学中には習近平氏と同窓だったことは知られているが、米ハーバード大学に留学し、経済・金融政策に精通している実力派でもある。

国家発展改革委員会の研究部門である国家情報センター副主任、同改革委員会副主任を務め、経済政策の骨格を決める党中央財経領導小組弁公室副主任となり、さらに習近平氏に取り立てられて同弁公室主任に昇任し、昨年3月に副首相に就任した。

習近平氏は昨年9月から同10月にかけて国内を視察した。専門家の間ではこの視察が今後のマクロ経済と産業政策に大きな影響を与えるのではないかといわれる。石炭など国有企業が集積する東北地方から始まり、最後は民間企業が中国経済を牽引する深圳など広東省を訪問した。特にイノベーションが進む広東省の視察は入念に行われ、昨年10月26日に北京で行われた安倍晋三首相との首脳会談は、習氏の視察の影響で当初予定から数日遅れたという。国内視察を通して習氏は「国進民退」から民間重視に舵を切ったのではないかとみられている。その証左は昨年11月1日、習近平主席が開催した民営企業座談会にある。習氏は「世界500強の企業の中で、わが国の民営企業は2010年の1社から18年には28社に増えた」と強調し、公有制主体の建前は空文化していることを示した。

米国ではトランプ政権はもちろん、民主党の知識層にも、中国の国有企業改革の停滞が貿易摩擦の要因になっており、民間企業を中心に改革・開放を急ぐべきとの意見が多数を占める。米中貿易摩擦は中国のマクロ経済や産業政策とつながるテーマであり、その意味で劉鶴副首相が実質的なキーパーソンとして国家発展改革委員会の根幹政策に深く関わり、指揮・指導していくことになるとみられる。

清宮克良(せいみや・かつよし)毎日アジアビジネス研究所長

1983年毎日新聞社に入社。水戸支局、社会部、政治部。98年に米ジョンズポプキンス大国際関係大学院(SAIS)客員研究員、その後、ワシントン特派員、政治部副部長、さいたま支局長などを経て、執行役員国際事業室長。中国、インドネシア、ベトナム、ミャンマー、タイ、ロシアでフォーラムやイベントを手掛ける。2018年10月から現職。