小川 忠 (跡見学園女子大学教授、元国際交流基金ジャカルタ日本文化センター所長)
受刑者全員、脱走
9月末にインドネシア・スラウェシ島中部を襲ったマグニチュード7・5の地震と津波によって、数千人規模の犠牲が出ている。支援の遅滞、略奪、治安の悪化等混乱が続いた。早く支援体制が機能するようになり、被災した人びとへ救いの手が差し伸べられることを願う。

今回の地震は、いかなる影響をこの国に及ぼすのだろうか。環太平洋火山帯の上に浮かぶ列島国家インドネシアは、日本と同様に、地震・津波・火山噴火から逃れられない運命にある。2004年のスマトラ島沖地震とこれに伴うインド洋大津波は、13万人以上のインドネシア国民の命を奪う甚大な被害と同時に、30年にわたって続いたアチェ紛争の終結という政治変化をもたらした。
スラウェシ島地震に関して、気になる報道がある。AFP通信によれば、津波に襲われたパル市内の刑務所(定員120人)では壁が崩壊し、受刑者581人の大半が脱獄するなど、3カ所の刑務所・拘置所から1200人以上(逃亡者数については報道機関によって異なる)の逃走があったことを、法務・人権省が明らかにした。
法務・人権省の公表統計をチェックすると、今年1月時点で被災地パルやドンガラのある中部スラウェシ管区には、365人の一般受刑者、826人の特別受刑者合計1181人が、管内の刑務所・拘置所に収監されていた。この特別受刑者の中には55人のテロ犯罪受刑者が含まれている。
ドンガラの刑務所では、家族の安否確認を要求していた受刑者が怒り出し火を放ち受刑者全員、脱走した。受刑者の多くは、汚職や麻薬関連の罪で収監されていた者たちで、テロ犯5人は地震発生の数日前に別の刑務所に移送されていたという。
強固であるべき刑事施設の破損、定員の4倍を超える受刑者数、受刑者による放火、全員逃走等々、刑務所の運営管理体制は一体どうなっているのか、疑問を覚えざるをえない。
「脱過激化」プログラムとは?
インドネシアの刑事施設が多くの問題を抱えている点は、これまでもイスラム過激主義者のテロ対策、特に「脱過激化」プログラムの観点から指摘されてきた。
ここで改めて「脱過激化」プログラムについて概説しておきたい。02年10月のバリ島爆弾テロ事件以降、国際的なイスラム主義組織がひき起こすテロ事件に、インドネシアは平和と安定を根底から脅かされてきた。テロを抑えこむために、政府は硬軟取り混ぜたテロ対策に取り組んだ。
03年にテロ対策法が成立し、これを受けて国家警察は米国とオーストラリアの支援を受けて対テロ特殊部隊(デンスス88)を創設した。デンスス88はテロ組織拠点急襲作戦を相次いで敢行し、主導者たちを逮捕・射殺し、組織の弱体化に成果を挙げた。09年7月のジャカルタ米国系ホテル爆弾テロ事件以降、16年1月のジャカルタ連続爆弾テロ事件までの7年間、インドネシアで大規模なテロ事件は発生しなかった。
さらに警察、軍他様々な省庁が関わるテロ対策を一元化し調整するため、国家テロ対策庁(BNPT)が10年に設立された。
こうしたハードなアプローチが過激組織メンバーの大量検挙という成功をおさめた結果、刑務所では多数のテロリストが服役することになった。
ここで刑務所に求められたのが、受刑者がテロを再犯しないように過激なイスラム主義思想を除去し、彼らを悔悛させ、テロ実行を思いとどまらせる、といった受刑者の内面へのソフトな働きかけである。
「脱過激化」プログラムは、穏健なイスラム理解を受刑者に移植し、彼らが精神の温かみを回復させ、刑期を終えた後の円滑な社会への復帰を促すとともに、社会から白眼視されがちな家族へ支援を行うなどの事業が柱となっている。
「脱過激化」概念には、(1)過激化予防、(2)過激思想に感化を受けつつある者の過激化抑止、(3)すでに過激化してしまった者の脱過激化という三つの段階が含まれており、それぞれの段階に応じた事業が行われているが、各刑務所・拘置所では主に3番目のテロ実行犯の脱過激化、更生を達成目標として取り組んでいる。
近年、政府は「インドネシアの脱過激化プログラムは成果を挙げつつあり他国の手本」と対外的にアピールしている。17年のドイツG20フォーラムにおいて、ジョコ・ウィドド大統領は「脱過激化によって、インドネシアはテロに打ち勝ちつつある」と胸を張った。
「脱過激化」プログラムの成否
しかし大統領の意気軒高な発言とは裏腹に、ここ数年間の「脱過激」プログラムの内実を調べた調査研究報告の多くが、インドネシア刑務所の「脱過激化」プログラムは多くの深刻な問題を抱えており、期待されたほどの成果を挙げていない、と指摘している。成果を挙げていないどころか、過激思想に染まっていない一般受刑者までが、刑務所内での受刑者間の勧誘によって「過激化」したケースも報告されている。
17年末時点において国内七十数か所の刑務所・拘置所に、約230人のテロ犯罪受刑者が収容されていた。全国に散らばるとはいえ、テロ犯の多くはジャワ島、スマトラ島、スラウェシ島の刑務所にいる。テロ犯の配置について、当局は、テロ犯をあえて家族に近い刑務所に収監することによって、家族との頻繁な面会を促進しようとしている。これには家族との接触を通して、過激思想の呪縛から受刑者の心を解こうという意図がある。
定員オーバー、不衛生で老朽化した施設、劣悪な食事、所内での暴力、監視する側の賄賂の横行、専門的知識を持った人材不足等、刑事施設自体の欠陥に加えて、「脱過激化」プログラムそのものの問題点が明るみになりつつある。
多くの専門家が指摘するのは、個々の刑務所で様々な「脱過激化」プログラムがバラバラに行われているが、対テロ対策を統括し調整するはずのBNPTに戦略性がなく、情報・ノウハウの共有が円滑に行われていないがゆえに効果を挙げていないという点だ。
BNPTは当初、過激思想に染まった者たちに、その思想を放棄させようと試みたが成果は思わしくなく、権力が思想信条をコントロールしようとすることへの反発から一層過激な方向に向かう者もあって、方向転換を迫られた。そこでアプローチを変え、BNPT担当者がテロリスト受刑者を訪問し、彼らとの日常的なコミュニケーションを増やし、信頼を獲得するともに、家族の面会を認め、家族とのやり取りを通じて彼らの人間性を回復させ、少しずつ洗脳を解いていくことにした。しかしBNPTの訪問はたまにしか行われず、人間関係を築くには不十分なものであった。また「釈放は近い」とささやき期待をもたせておいて、そのまま放置する、場当たり的な対応がテロ受刑者の不信を買ってしまった。
「中央」で考えた頭でっかちなプログラム、という指摘もある。例えば13年12月、BNPTは、エジプトの過激イスラム組織「ジハード団」創設者の一人にして、後に無差別テロ戦術を放棄したナジ・イブラヒムら著名なイスラム聖職者をインドネシアに招いた。過激イスラム主義が神学上誤りであることを受刑者たちに悟らせる講演会を企画したのである。BNPTはこの企ては成功だったと自賛したが、現場の刑務所関係者は、受刑者たちが心を動かすことなく「脱過激化」効果はあがらなかった、と認めている。
過激化した者たちの心のあり様は一人一人違っていて、そうした彼らの心の襞に寄り添うようカスタマイズされたものではない、一方通行型の「脱過激化」はうまくいかない、というのが現場からの声だ。
紛争地ポソ
パルやドンガラ刑務所から姿を消した受刑者は、どこに消えたのか。懸念される点は、彼らが被災者に紛れこみ、かつて激しい宗派間抗争が起きたポソに逃走することである。パルからポソまで車で6時間、二つの町のあいだには急峻な山脈とジャングルが存在するが、土地勘のある者なら徒歩での山越えも可能だ。
ポソでは1998年12月にイスラム教徒とキリスト教徒の間で紛争が勃発し、数千人の犠牲者と6万世帯以上の避難民が発生した。状況をさらに悪化させたのは、外部から「ラスカル・ジハード」や「ジェマ・イスラミア」のような過激組織がイスラム教徒支援の名目でポソに潜入したことである。彼らは、宗派間の憎悪を煽りたて、どこにでもある若者同士の喧嘩から始まったポソの流血が「宗教紛争」であるかのように印象付けた。
さらに2013年頃に、イスラム過激組織指導者サントソが新たな過激組織「東インドネシアのムジャヒディン」をポソで結成し、ポソ近郊の深い森に隠れて、警察への散発的な攻撃を仕掛けた。サントソは14年「イスラム国」(IS)への忠誠を誓い、シリアにいるISインドネシア人幹部から武器購入資金を獲得していた。
警察と軍による威信をかけた掃討作戦の結果、16年にサントソは射殺され幹部の逮捕が相次ぎ、組織は弱体化したのだが、一部残党はフィリピン・ミンダナオ島に逃亡しISの東南アジア拠点作りに関与している、と国家警察は見ている。
このようにポソは、宗派間抗争の傷を抱える町であり、国内および国際的なイスラム過激組織ネットワーク結節点となった地域である。今回の地震直前にポソを訪問、現地調査した笹川平和財団の堀場明子主任研究員によれば、警察の過剰な取り締まりに対して反感をもつ人間がポソに相当集まっているという。1998年の宗派間紛争に加わり、刑期を終えて出所した者たちは依然として憎悪や心の傷を癒すことなく、持ち続けている。ポソでは住民の意思を無視した中央の政治家主導の復興開発が進む一方、「自分たちは見捨てられた」と疎外感を抱く人々の鬱屈が渦巻いている。
そうした地域に、パルから過激思想に感化された刑務所脱走者が流入するとどうなるのか。再びテロ・リスクが高まることを懸念せざるを得ない。
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