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小川 忠 (跡見学園女子大学教授、元国際交流基金ジャカルタ日本文化センター所長)

終盤を迎えた大統領選挙

4月17日投票日に向けて大統領選挙もいよいよ終盤に入ったが、各種世論調査を見る限りでは、現職ジョコ・ウィドド(ジョコウィ)大統領が優勢な情勢である。

インドネシアの世論調査機関には党派性があるので、その信頼度に関して留保つきで受けとめた方がよいが、ほとんどの機関はジョコウィ優勢と発表している。対立候補プラボウォ・スビアントとの差は、30%以上から10%未満までまちまちであるが、ジョコウィがリードしているという点では一致している。

平均5%台の経済成長と3%台の低インフレ率という堅実な経済運営、クリーンな政治姿勢、従来の指導者に欠けていた庶民感覚、当初優勢であった野党陣営を切り崩し連立与党に取りこんでいった手腕、といったジョコ大統領第一期の実績を、有権者は評価している、ということなのだろう。副大統領候補にイスラム保守派指導者を選び、「ジョコウィは反イスラム」というプラボウォ陣営からのレッテル貼りを封じたことも影響しているだろう。つまり今期ジョコ政権の5年間は失政が少なく、隙もなく、ネガティブ・キャンペーンを得意とするプラボウォ候補が攻めあぐんでいるともいえる。

他方、おや?と思う世論数値も出ている。前回の2014年大統領選挙では、ジョコウィは都市部、中間層市民、若者に支持されていたという印象が残るのだが、オーストラリア調査機関のロイ・モルガン・リサーチが1月にインドネシア全土で行った調査によれば、今回選挙においてジョコウィは村落部で圧倒的支持を得ており、プラボウォは都市部で追い上げているという。同機関調査によれば、東ジャワ州とバリ州においてジョコウィ支持73%、プラボウォ支持27%と圧倒的にジョコウィが強いのだが、首都ジャカルタとジャカルタに近い西ジャワ州ではプラボウォは57%の支持を獲得し、ジョコウィは43%支持となっていて、ジョコウィは対立候補にリードを許している。

またインドネシアの調査機関ポプリ・センターによれば、35歳未満のミレニアム世代ではプラボウォ支持率が上り、ジョコウィとの差が縮まり、浮動票の動向いかんでは接戦になる可能性があるという。

都市部、若者ほどプラボウォ支持が高まるというのは、リベラル層のジョコウィ第一期政権への失望、中間層の政治意識の保守化を意味しているのだろうか。

豊かになるとは

インドネシア経済は過去5年間ジョコ政権下にあって、5%台の安定成長を続けてきた。前任のユドヨノ政権時代の11~12年は6%前後であったのと比べると、ややその成長は鈍化したが、それでも世界の主要新興国のなかで、インドネシア経済の「堅調さが際立っている」(三菱UFJリサーチ&コンサル
ティング調査部・堀江正人主任研究員)。

堅実なインドネシア経済成長の特徴は、内需主導型であり、個人消費は人口増加や賃金の大幅上昇を追い風として年々拡大している。2018年のインドネシア経済の個人消費の伸びは、5・05%で前年の4・95%から加速している。経済改革センター・ファイサル理事の表現を借りると、2018年を通してインドネシア国民は「大胆に買い物し、消費は増えたが、貯蓄は減少した」のである。

20年近い経済成長の結果、何が起きたか。インドネシア中央統計局は、18年インドネシア国民一人当たりの年間所得は、3927米ドルであったと発表した。世界銀行は、一人当たりの国民所得を基準に、995ドル以下を低所得国、996~3895ドルを下位中所得国、3896~12055ドルを上位中所得国、12056ドル以上を高所得国と分類している。すなわちインドネシアは18年に上位中所得国に仲間入りしたことになる。

インドネシア国内の地域格差や貧富格差を考えると、「上位中所得国」というカテゴリーがそのまま同国国民の実体を表す訳ではないが、総じて貧しかったこの国が豊かになりつつあることは確かである。ジョコ政権は、失業率、貧困率、ジニ係数も低下させ、再分配政策に力を入れている。

豊かになるとはどういうことか。そんなことに思いを巡らせながら、ジャカルタを歩いて気づいたのは、背の高い、立派な体格の若者が増えたことである。筆者の身長は175センチであるが、1990年代初めの頃は自分より背の高い若者に出くわすことはほとんどなかった。しかし今では、どこのショッピングモールを歩いても自分より背の高い若者はいるし、見上げるような大男、筋骨隆々の体育会系男子も珍しくない。

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ジャカルタでは肥満体型の人を見かけることも増えた=小川撮影

増大する肥満人口

「豊かになる」とは、今まで「食えなかった」人々が「食える」ようになるということだ。「食えなかった」人が「食える」ようになるとどうなるのか。

インドネシア保健省は、体格指数(BMI)25以上27未満を「体重過多」、27以上を「肥満」と定義している。同省が2018年に行った調査結果によれば、18歳以上のインドネシア国民のなかで「体重過多」者の比率は07年8・6%から18年13・6%へ、「肥満者」比率は07年10・5%から21・8%、になっていて、18年の「体重過多」「肥満」者の比率は35・4%に達し、この10年間で85%という急激な伸びを示している。すなわち、現在のインドネシアにおいて3人に1人の大人が「体重過多」「肥満」状態にあるのだ。

また同省は腹囲を基準に用いて、女性80センチ以上、男性90センチ以上をメタボと判定しているが、15歳以上の成人国民でメタボリック・シンドローム疑いありとされた人の比率は、07年18・8%から18年31%へと急拡大している。

州別統計を見ると、ジャカルタはBMI値による肥満比率30・2%(全国平均21・8%)、腹囲値によるメタボ比率42・5%(全国平均31%)となっており、首都ジャカルタは全国でトップレベルの肥満・メタボ比率となっている。

「体重過多」「肥満」者が増えると、脳卒中、心臓病、糖尿病など生活習慣病の発症リスクは高まる。インドネシアの生活習慣病死亡率は90年37%であったのが、15年には57%に増加している。生活習慣病が増える要因として、エネルギー、脂質、糖類などの過剰摂取等を、医療専門家は指摘している。

概してインドネシア国民は、甘い物、脂っこい料理が大好きである。コーヒー・紅茶にはたっぷりと砂糖を入れるし、インドネシアの国民食ナシ・ゴレン(焼き飯)、ミー・ゴレン(焼きそば)は炭水化物系炒め物である。それでも腹いっぱい食べることが切ない夢であった貧しかった時代には、栄養過多という恐れはなかった。今では望めば、食べたいだけ食べられるようになった。

十文字女子大学が行った「インドネシア・ジャカルタの家庭実態調査」によれば、主食のコメはココナッツミルクやパームオイルで料理したものが多く、インドネシアの栄養推奨量を100%とすると脂質は155%ととびぬけて高く、エネルギー摂取量が推奨量よりもかなり高かったという。同調査はまた、食物繊維が35%と低いのは、野菜摂取が少ないためであり、血糖調節の困難を指摘している。現在の食生活をこのまま放置しておくと、将来の糖尿病患者拡大の危険性がますます高まるのは明らかだ。ちなみに国際糖尿病連合の2017年調査によれば、インドネシアの糖尿病人口は1000万人で世界6位、日本は上位10か国圏外で、現時点ですでにインドネシアの方が日本よりも多くの糖尿病患者を抱えている。

健康ブーム到来の予感

食生活と健康の関係性については、次第にインドネシア国民の意識も変わりつつある。ジャカルタ市内の映画館に入ると、上映前の予告篇とともに「健康のために砂糖の取り過ぎに注意しましょう」という公共広告がスクリーンに映し出される。10年前にはなかった光景だ。

豊かさは、宗教の社会的機能も微妙に変えつつある。国民の9割を占めるイスラム教徒は、年1回断食月(ラマダーン)に夜明けから日没まで断食の行を実践する。この期間、イスラム教徒の宗教意識は高まり、「イスラム教徒として自分は何を為すべきか」等々の議論が盛んにメディアの場で交わされる。「イスラム教徒が断食する意義は何か」という点も、ラマダーンの社会的議論の主要テーマであるが、数年前にある大学教師がラマダーンの意義について新聞に投稿していた。

このなかで投稿者は、自己欲望との戦い、貧困者への憐憫の情を育むこと等従来から言われてきたことに加えて、現代的な意義を付け加えている。すなわち、栄養過多から健康を害する人々が増えているなかで、宗祖ムハンマドや現代医療研究者の言を引用しながら「断食はダイエット効果がある」というのである。

筆者の知る限りでは断食が終わった後、夜に大食するので、かえって断食月に太る人もいて、ダイエット効果があるというのは、はなはだ疑問であるが、インドネシアの経済成長がもたらした「肥満を気にする中間層」の出現という、これまでこの国の歴史になかった変化のなかで、新しい社会要請に応えようと、投稿者はイスラム教徒として宗教教義を能動的に解釈しているのである。

毎週日曜日の朝、ジャカルタの目抜き通りであるスディルマン通りは、歩行者天国となり、多くのジャカルタ市民で賑わう。ジョギング、ウォーキング、ダイエット体操に取り組む人びとのカラフルなスポーツウェアで華やかだ。そのなかには相撲力士のような巨漢の若者もいる。こうした風景を観察していると、この国の社会が経済成長によって大きく変貌を遂げ、そこに生きる人びとの意識や体格も急速に変わりつつあることを実感する。平成の日本が経験した健康ブームは、確実にこの国にもやって来るに違いない。首都ジャカルタでは既に到来している。

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ジャカルタ中心部で、エクササイズに励む女性たち=小川撮影