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小川 忠 (跡見学園女子大学教授、元国際交流基金ジャカルタ日本文化センター所長)

フレディー・マーキュリーの葛藤

伝説のロックバンド「クィーン」の軌跡を描いた映画「ボヘミアン・ラプソディ」が、配給会社を驚かせる大ヒットとなっている。世代を越え観客を集める人気の高さの一つは、この映画が単に美談としてクィーンの栄光を語ることで終えず、その花形リード・ボーカル、フレディー・マーキュリーが内面に抱えていた苦悩を掘り下げていることにある。

1991年に世を去ったフレディーは、人知れぬ葛藤を抱えて生きていた。その葛藤とは、ゲイであること、エイズに罹患したこと、そしてインド系マイノリティーであったこと――の三つである。映画は包み隠さずこの事実に触れ、稀代のスーパースターの光と影を映し出す。

そのバンド名の通り英国を代表するロックバンド「クィーン」のなかでも、最もスポットライトを浴びるボーカルのフレディーが、生粋の英国人ではない、という事実を私が知ったのは、今から約20年前、国際交流基金ニューデリー事務所駐在時代だった。1999年ムンバイのブリティッシュ・カウンシルがフレディー回顧写真展を開催し、彼の母親ジェー・バルサラも出席して、ちょっとした話題になっていたのである。

フレディーは1946年に、当時英国領であったアフリカのザンジバル島で生まれた。両親は、ゾロアスター教徒のインド人である。

16歳までインドの大都市ムンバイで暮らし、そこで音楽と出会った。7歳でピアノを習い、8歳で英国式寄宿学校に入学し、12歳でロックにのめりこんだ。英国に家族とともに移民としてやってきたのは、フレディー17歳、多感な少年の時だ。

映画の標題でもある、クィーンの代表的ヒット曲「ボヘミアン・ラプソディ」は、いつ聴いても謎に満ちている。「これは夢かうつつか。地滑りに巻き込まれるように現実から逃れられない」と歌い出し、「俺はしけた奴だけど、同情なんかいらない。風に吹かれるままに生きるのが俺の流儀」と強がる。しかし突然「母さん、人を殺してしまった!俺を助けてくれ!」と悲痛な叫び声をあげる。これに対して「お前を許さぬ」という天の声。

「ビスミッラー(神に誓って)」というイスラムの祈りの言葉や、聖書に登場する悪霊「ベルゼブブ」も歌詞に織り込まれていて、これらを理解するにはかなり幅広い教養が求められる。ロックとオペラが融合した壮大で複雑な曲作りは、当時の音楽業界の度肝を抜いた。「こんな訳の分からない単語が並んだ唄が、ヒットするわけがない」と映画の中でレコード会社の幹部が「ボヘミアン・ラプソディ」のシングル化に難色を示すが、それもごもっともと思う。その難解さゆえに様々な解釈が生まれるのだが、創作者フレディーはあえて解説しようとはしなかった。

歌詞全体に漂う所在の無さから、インド(東洋)とイギリス(西洋)、二つの異なる文明世界を生きた青年フレディー・マーキュリーの胸中に潜む「自分は何者なのか」という疑問と不安を焙り出した曲、と私は解釈している。ゾロアスター系インド人「ファルーク・バルサラ」であることを止め、英国籍を取得して「フレディー・マーキュリー」として生まれ変わった彼の前半生を考えると、ボヘミアン・ラプソディの中で吐露される「殺してしまった」のは、過去の自分というふうに考えられないか。西洋文明への強烈な憧れと自らの文化的ルーツを消去しようとしている自分自身への罪悪感。矛盾する二つの感情がオペラのように劇的に交錯する。

ロックが投影する政治権力の性格

ロックとアイデンティティーというテーマに関し、インドネシアにも興味深いロックバンドが存在する。同国実力ナンバーワン・バンドと呼ばれる「ギギ」(GIGI)である。1994年に結成されて以来、インドネシアやマレーシアの各地で精力的にライブをこなし、95年に5枚目のアルバム「キラス・バリク」でインドネシア・ゴールデン音楽大賞ロックバンド最優秀賞、98年にマレーシアのアルバム大賞、インドネシア音楽大賞最優秀グループ賞、最優秀ボーカル賞を受賞し、頂点を極めた。アメリカや日本など東南アジア以外の地域でもコンサートを行っており、2018年日本・インドネシア国交樹立60周年記念イベント「フェスティバルインドネシア2018」にも出演した。日本にファンクラブもある。

インドネシアのロックバンド「GIGI」=コンパス紙撮影
インドネシアのロックバンド「GIGI」=コンパス紙撮影

 

このように芸歴20年を超えるベテラン・バンドなのだが、インドネシア社会のイスラム活性化現象が顕著なものとなった2004年に、イスラム色の強いアルバム「ライラ・クムナンガン(「勝利をつかめ」)」をリリースし、大きな反響を呼んだ。以来、彼らはイスラムへの傾斜を強めた。

オランダ人研究者レオニー・シュミットが、ギギのイスラム傾斜について「イスラム・ロックと現代の想像力」という興味深い論考を昨年発表した。この論考をも参照しつつ、近代化(欧米化)、イスラム化という二つのグローバリゼーション潮流にさらされているインドネシア青年たちの自己表現のかたちをスケッチしてみたい。

インドネシアにおけるロックの歩みを振り返ると、国家権力がロックをどう受けとめたか、その姿勢の違いから、その時々の権力の性格と社会動向が浮き彫り出されてくる。

スカルノ初代大統領が権力の座にあった60年代前半、ロックは禁止された。若者を夢中にさせるロックは、西洋の文化帝国主義、新植民地主義のプロパガンダとみなされ、若者を退廃させる中毒性の高いこの音楽の浸透を許してはならない、とアジア・アフリカ新興独立国のリーダーであったスカルノは考えたのである。

1968年にスカルノを権力の座から引きずりおろして第2代大統領に就任したスハルトは、冷却化していた欧米諸国との関係修復を図り、この政策転換とともにロックも解禁された。その後70 年代に入ると、スハルト軍部強権体制に批判を強める学生や労働者のあいだで、ロックは秩序を重んじるスハルト開発独裁への批判メッセージを社会に伝え、表現する有力な手段となった。80 ~90年代のスハルト長期政権下にあって時代の寵児だったのは、骨太な反体制ロック・シンガー、イワン・ファルスである。

スハルト政権末期の90年代なかば、都市部で次第に拡大していった中間層において、ロックは次第に「反体制の象徴」から、「おしゃれでカッコいいもの」へと受けとめられ方が変化していった。テレビの民間放送開始、海外からのビデオ映像の流入など、情報・文化面での国家統制が緩んだ時代でもある。ギギがバンドとしての活動を始めたのもこの時期で、政治色のないポップな感覚が彼らの売りだった。

そして、98年に30年続いたスハルト政権が崩壊し、民主化改革がスタートする。この民主改革の時代に、80年代に目立ち始めたインドネシア社会のイスラム活性化現象が加速し、特に都市部中間層の若者のあいだでこの現象は顕著となった。購買力のある都市部中間層がイスラム再覚醒していく状況にあって、イスラムと消費文化、コマーシャリズムの融合も進んだ。

ところで、イスラムとエンターテイメント、消費文化の融合は、インドネシアのみならず、他のイスラム地域においてもみられる世界的潮流である。ハードロック、ヘビーメタル、ヒップホップ、ラップなど欧米発の若者文化とイスラムの融合が、中東やアフリカ各地で発生している。ギギのイスラム傾斜も、こうした世界的潮流と無関係とはいえないだろう。

イスラムと近代化は両立するというメッセージ

議会民主主義、政教分離、ジェンダー平等、少数派の人権尊重等西洋近代の基本的な価値観とイスラムは相容れるか否かで、インドネシアのイスラムは、リベラル派と厳格・排外派に大別できる。これについてシュミットは、ギギの発するメッセージは、リベラル・イスラムに共鳴するものであることを指摘している。つまり「イスラムと近代化は両立する」というのである。前述アルバム「ライラ・クムナンガン」に収録された「トハン」(神)と題する、アッラーを讃えるメッセージ・ソングとそのミュージック・ビデオから、シュミットは説きおこす。

このビデオでは、近代化を意味する大都会と伝統的な緑豊かな村の暮らし、二つのイメージ画像が対比的に登場する。森の中でギギのメンバーはイスラムの礼拝を連想させる白装束を着て演奏している。伝統的な村の暮らしには静かな祈りがあるのに対して、都市の生活はめまぐるしく世俗的で、二つの世界は隔絶しているかのようだ。しかしビデオの最後に都会の人も車も退行し始め、森の世界に吸い込まれていく。この曲が訴えるのは、イスラムは現代世界にも適応しうる柔軟な宗教、イスラムと近代化はインドネシアにおいて両立しうるというメッセージである。これは、まさに都市部中間層のリベラル・イスラム青年たちが、イスラム厳格・排外派との論争のなかで確立しようとしている自己認識でもある。

イスラムは東南アジアに広がっていく過程において、各地の固有文化や社会価値に適応しながら根付いていった。ローカルな立場から言えば、東南アジアの人々はこの世界宗教を適宜解釈し、元々の伝統とブレンドさせながら取捨選択していった。イスラム・ロックバンドは、現代における新たな習合の姿である。